後ろの人

お化けは信じないけどUMAは居るなんて言ったのは兄だった。
私は逆にUMAは信じていないけれどお化けは居ると思ってる。マーティー叔母さんはよく怖い話をしてくれた。その中にネッシーやイエティは一度も出てこなかったもの。
叔母さんの怖い話に出てくるのは女の人のお化けばかり。イメージするのはブロンドの長い髪、文字通り透きとおった青白い肌。真っ白のネグリジェにはレースとフリルがふんだんにあしらわれている。
顔を覆ってしくしくと泣きながら恐ろしい言葉を吐き出す。こうあるべきだと考える怖いお化け像はそんなもの。
けれどね、実際に私が目にしたお化けは男の人でスーツ姿だった。

気が付いたら家の中に彼は居た。あまりにもはっきりと見えるから最初は生きてる人だと思ったわ。家族は私以外誰も彼に気付いていなかった。その事実に気づいた瞬間ハッと息を飲み込んだのを覚えている。
彼は私の視線に気づくと驚いて目を見開いたの。まさに「僕のことが見えるのかい!?」って感じにね。それから人差し指を唇の前において「静かに」と合図した。小さく頷くと彼は視線を兄の方に向ける。兄は父の膝の上でカメラの使い方を教わっていた。
古いカメラは祖父の物で、もう要らないからと先週遊びに行った時に譲って貰った物だった。35ミリのライカカメラは少し汚れてはいるが使う分には問題なさそうで、兄は私の名前を呼んでからシャッターを切った。
「可愛く撮れた」
「見せて!」
カメラの中の私は惚けた顔で可愛いとは言い難い。「もっと可愛く撮ってよ!」とブーイングを飛ばす。
「これ以上に可愛く撮るの?」
もう充分可愛いのに。
顔が真っ赤になる。兄に抱きつくと毛足の長い絨毯の上に転がった。これだからブラコンはやめられない。兄が私を愛してくれているだけ私もお兄ちゃんのことが大好きで愛している。
ひっくり返った兄とひとしきりケラケラ笑ってから夕飯の時間だとリビングに向かう。子供部屋を出る前にあっと思い出して父の背中からスーツの彼を覗いた。彼の視線は父と手を繋いでいる兄に注がれている。心なしか口元が笑っているように思えた。


最近の悪魔はスーツ姿がベターである。
といった知識を映画で得た私は真っ先にスーツの男を思い出した。
今日は母と私は祖父母の家に。父と兄は釣りに行っていた。スーツの男は当然のように兄の方へと着いて行ったはずだ。
映画の中のスーツの男は悪魔だった。男は主人公の恋人を見つめてから「彼女は3日以内に死ぬ定めだ」と笑いながら言って消えた。最後は主人公もその恋人も悪魔をやっつけてしまったけれど、お兄ちゃんは聖水に浸した剣も、ピカピカに磨かれたロザリオも持っていない。私は急に怖くなった。
怖がる私に祖父は追い討ちを掛けるようにスーツの死神の話をした。人が死ぬ間際に口笛を三回鳴らすんだ。振り返ればスーツに身を包んだ悪魔が袋を携えて言うのさ。「迎えに来たぞ」ってね。
たまらず泣き出すと母と祖母は物凄い剣幕で祖父を叱ってから私を抱きしめてくれた。おじいちゃんの言ったお話は小説の中だけなのよ。ミシェーラの前にスーツの悪魔も死神も来やしないわ。
私はまたわぁっと泣き出した。私じゃないの。お兄ちゃんの前に現れたの。お兄ちゃんに会いたい。早く帰ってお兄ちゃんの声を聞きたい。

「泊まって来るんじゃなかったのかい?」
「ミシェーラお帰り。にいちゃんすっごくでかいニジマス釣ってき、た、ぞおおおうぉっ!?」
私は父の言葉を無視して兄に突進した。兄の手から離れたニジマスは芝生の上でビチビチと激しく跳ねていた。
兄に頭を撫でられながら後ろにいる彼を見上げた。彼は相変わらず兄を見つめている。
悪魔とか、死神だったらどうしよう。お兄ちゃんが連れて行かれたらどうしよう。
ぎゅうと掴んでいた服を更に強く握りしめた。唇を引き締める。
「ミシェーラ?」
兄は不思議そうに青い瞳で私を見つめた。
「お兄ちゃんに悪魔がついてるの、スーツの悪魔よ。きっとお兄ちゃんを連れて行くつもりなんだわ」
声にするとまた目頭が熱く、視界が滲んで来た。
お兄ちゃんがいなくなったら私はどうなるんだろう。生まれた時からずっとそばに居てくれたお兄ちゃん。たまに雑だけど優しくて暖かいお兄ちゃん。失いたくない。そんなのは嫌だ。
俯く私に兄は優しく声をかけた。そういうところが大好きなの。
「ミシェーラ、ミシェーラ。悪魔はどこにいるの?」
「お兄ちゃんの後ろよ。植木鉢の前」
頭をぽんと軽く叩いて私の言った場所を、彼を睨み付けた。
スーツの男と兄の視線はかち合わない。目が合ったとしても子供が睨みつけてきた程度じゃ怖くもなんともないだろう。ましてや兄は開いてるか閉じてるかも怪しい糸目で睨んでいる顔と判別出来るかも怪しい。なのに。
意外や意外。彼は戸惑っている様に見えたのだ。男は情けなさそうに肩を下げて数歩後ろに下がると両手を上げた。何もしないよとジェスチャーする。
「お兄ちゃん、もう大丈夫」
「ほんとに?」
「うん」
彼は悲しそうに兄を見つめていた。さっきまで恐怖の対象だったスーツの男は今やすっかり捨てられた子犬みたいにしょげ返っている。可哀想なくらいに気落ちして、それでも兄を見つめている。
そこで私は大きな勘違いをしているのではないかと思った。
とにかくこの様な情けない姿だ。悪魔でも死神でもないのは確かである。

「お兄ちゃんを連れて行ったりしない?」
男は頷いた。
「…お兄ちゃんを好きなの?」
頷いた。

心底安心した私はそのまま兄の腕の中で眠ったらしい。
起きて真っ先に視界に映ったのは心配そうに私を覗き込む兄と、その後ろで兄を見つめる彼だった。
彼のあの視線は父が母に向けるもの、母が父に向けるものと同じ。ストンと落ちた。なるほど、だからだったのね。貴方はお兄ちゃんを愛しているのね。
「お兄ちゃん」
「なに?具合悪い?まだ悪魔がいるの?」
いるのならお兄ちゃんがやっつけてやるからな。
兄の言葉に男の肩がビクっと小さく跳ねた。
「ふふふ、違うわ。悪魔じゃなかったみたい」
「そうなの?」
「うん。お兄ちゃんのことが好きなお化けだった」
キョトンと兄は首をかしげる。
「ミシェーラ、お化けはいないよ?」
後ろで男がずっこけた。

私は堪らず声を上げて笑った。
じゃあお兄ちゃんのことが好きなイエティね!

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