ジャファアリ/現パロ

檻の店

『4時46分44秒、そろそろ子供は帰る時間だよ』

からくり時計から顔をのぞかせた青い鳥が時刻を告げた。
色とりどりの積木で堕円状に囲まれていた俺は、手にしていた赤い髪の人形を積木の一角に載せると立ち上がり、積木を跨いだ。
積木の上に載せた人形が寂しそうな顔をしたので、小さく笑ってまたねと手を振った。
人形は手を振り返した。またね。
幼稚園のバッグを肩に掛け、扉の方へ行こうとして慌てて振り返る。あいさつはちゃんとしなさいってお母さんが言ってたのを思い出した。でも、俺がさようならを言う前にお兄さんは悲しそうに「帰っちゃうんですか?」と聞いてきた。
「もうすぐお迎えの時間だから、帰らないとお母さんに怒られちゃうんだ」
「どうしても帰らないとダメ?」
「ダメ。お母さんはいつも優しいけど、怒るとすっげー怖いんだもん!あと子供は遅くまで遊んでいたら悪い人に連れて行かれちゃうから早く帰らないといけないって先生が言ってたよ」
お兄さんは残念そうに短く「そうですか」とだけ言うと顔を伏せた。
俺は子供用の椅子をお兄さんの目の前まで引いてきて、ゾウの声が煩い動物図鑑を椅子に乗せるとそのうえに登り、背伸びをしてお兄さんの頭を撫でた。顔をあげたお兄さんは「また来てくださいね」と俺の頬を両手で挟んだ。大きく頷くと、安心したように笑った。
「お兄さんは寂しい病なの?」
「そうなんです、だから絶対にまた来てくださいね」
「うん、いいよ」
ジャンプして椅子から飛び降りる。うまく着地すると周りのおもちゃや人形達がパチパチと拍手を送る。
どうも、どうも。
金のノブに手を伸ばし、扉を開けてお店を出る。扉の隙間からひょいと顔をのぞかせて店の中のみんなとお兄さんに手を振った。
みんなは嬉しそうに手を振ってくれるのに、お兄さんだけは悲しそうに笑って手を振っていた。
ガチャンと重い扉を閉める。

おもちゃのみんなも、お兄さんもバイバイ、またね。


けたたましく鳴るアラームを、気だるい動作でリセットする。
最近は暖かくなってきたと思っていたら、また寒波が来たとかで今日から1週間肌寒くなるらしい。というか既に寒い。
今日は日曜日でバイトもなく、休みのはずなのだが残念なことに本日は支援金を受けている学生達の募金集めがある。
試験の成績と家庭環境から俺は利子なしの奨学金を貰えているが、その分地域のボランティアなどの慈善活動及び募金集めが月に2、3度ある。
面倒くさいことこの上ないが、学校に行かせてもらっている身なので甘んじて受けます。苦学生はつらいぜ。
早朝の寒さに身を震わせながら頭を掻いた。
あまり夢は見ないで熟睡するタイプだが、なんだか昨夜は変な夢を見たような気がする。
だが生憎夢の内容を覚えてはいない。
紅玉が最近夢占いにはまっているみたいで、朝起きると夢の中の出来事を日記につけては占っているらしい。本当はやらない方が良いらしいが、本人は特に異常が無いので良しとしている。
でも俺の場合は起きたときには既に忘れているから日記に付けるも何もない。だからといって別に日記を付けるのは面倒だから、忘れていなくても大差はないだろう。
アパートの外の車道を走る車の耳障りなクラクションに顔をしかめつつ、欠伸を噛み殺しながら家を出る支度を始めた。


「起きろ馬鹿」
ペシッと頭を叩かれてこっくりこっくりと揺れていた頭をあげる。俺今立ったまま寝かけてたよ、すげぇ。
でもこれだけ募金をしてくれる人が少ないと、寝こけてしまうのも仕方ないと思うんだ。
「タバコ吸うのやめろよ、余計人が遠ざかってるじゃんか」
「うるせぇ、大体人を見た目で判断する奴に金を貰ったってなぁ」
「いやいや、金は誰から貰っても嬉しいもんだろ」
まぁ、今日集金したお金は団体の方にもっていかれるんだけど。
カシムからタバコを取りあげ携帯灰皿で火種を潰す。てめぇ何しやがるんだと突っかかって来る拳を避けながら明るい声で募金をお願いしまーす、と声を張り上げる。ちゃりん。おじちゃんどうもありがとうございまーっす。
箱を左右に揺らして、チャリチャリとお金の擦れる音を鳴らすと左隣のザイナブがかったるそうにため息をついた。
「残りあと何時間」
「あと1時間半ってところじゃねぇ?」
「どうせ残り時間も大した金額が集まるわけないんだから、募金箱ハッサンに預けてばっくれない?」
彼氏を犠牲にする作戦を持ちかけて来たザイナブに、乗り気でカシムが相槌を打つ。お前らハッサンが可哀想だとは思わねぇのかと白々しい視線を送れば、じゃあお前はずっとここで集金していろよと言われてあっけなく掌を返す。さすがに一人は嫌だ。悪いなハッサン、今度3人で焼き肉奢ってやるから許してくれ。
そうして募金活動から抜け出したはいいものの、特に予定もなくやることもないのでファミレスでぐだぐだとしゃべるだけに収まっていた。
飲みかけのメロンソーダをストローでくるくる混ぜると、カラカラと氷のぶつかる音が鳴った。炭酸はほとんど抜けてしまってあまり飲む気が起きない。
そういえばさぁ、とザイナブがフォークを俺とカシムに突きつけながらニヤニヤと笑う。
「うちのところの大学で神隠しが流行ってるらしいんだけどアンタ達聞いたこと無い?」
くるくるとフォークの先を回して話しだす。
最近出て来たばかりの都市伝説があるらしいんだけどさ、酔った勢いや度胸試しにその都市伝説を試した生徒達が次々に行方不明になってるらしいのよ、それでついこの間うちの学部の奴が行方不明になってね、知人からの噂じゃ連絡がつかなくなる前にそいつが都市伝説を試していたらしいのよ。
「・・・まじで?」
「マジマジ、あの工学部の派手な髪色した先輩居たでしょ?あの先輩自主退学ってことになってるけど実は今行方不明らしいのよ」
ふおおおお、と軽く身震いすると横で馬鹿馬鹿しいとカシムが呆れた様子でたばこの煙を吐き出す。
「馬鹿馬鹿しいってなんだよ。確かに最近あの先輩見かけねーじゃんか、なぁ」
「馬鹿馬鹿しいだろそんなん。女なんて生き物はその手の話が好きなんだからめんどくせぇ」
「カシムは無神論だからそんなこと言うんだろ、でも実際行方不明になってるじゃん」
ザイナブもそーよ、そーよと声をあげると「じゃあ、行方不明になったやつらの名前言ってみろ」と煙草の先を灰皿にぐりぐりと押し付けた。
「そんなの人伝に聞いた話なんだから名前までは分からないわよ」
「ほらみろ」
小馬鹿にするように歯を見せてにやりと笑うカシムにザイナブがムッとむくれた。少しくらいなら分かるわよ。そう言って数人の名前をあげる。二人くらいは知っている名前があげられてへぇ、と声が漏れる。
「そいつらほとんどダブってんじゃんか、学費が払えなくなって退学したってとこだろ?」
「それじゃあ先輩はどうなんだよ」
突っかかるように言うと、鼻先で笑われた。どうもこうも昨日バイト先で先輩に会ったぜ?
きょとんとしばしフリーズした後、勢いよくザイナブの方を見ると面白くないといった顔をしていた。
「ちょっとくらい乗っかってくれたっていいじゃない。アリババの反応面白かったのにさぁ」
「あんまりコイツで遊ぶなよ」
は?は?何それどういう事とせわしなく二人を見比べると、カシムに「どんまい」とポンポンと頭を叩かれた。
「嘘って事?」
まぁ大体ね。小さく舌を出してザイナブがウィンクをすると、ぽっぽっぽと顔が赤くなる。まじかよ、ひでぇ。信じかけてたじゃん俺。
くたりとテーブルに身を突っ伏せば、わしわしと二人から髪を混ぜられる。一つだけの年齢の違いで小さいころからずっと子供扱いだ。頬を膨らませればザイナブが苦笑した。
「でもその都市伝説が流行ってるってのは本当よ」
「・・・慰めにならない」
ほらほら、機嫌直しなさいよとケーキに乗っていた柑橘系のフルーツを問答無用で口に突っ込まれる。単に柑橘類が嫌いだから俺に押し付けただけじゃんと、不満を顔に出しつつもモゴモゴと咀嚼する。酸味のある味が口いっぱいに広がった。
「なぁ、その都市伝説ってこれの事か?」
隣でタブレットをずっと弄っていたカシムが、画面が分かるようにテーブルに置く。
顔をあげて画面をのぞきこめば、大学のサークルごとに書き込みのある掲示板だった。こんなものあったんだ、お前ら書き込みなんてしてないで勉学に勤しめよ。
カシムが指先で問題の都市伝説とやらの書き込みを拡大する。ザイナブがそうそう、それよそれーと声をあげた。

「別の世界へ、行く方法?」

うさんくさい内容の書き込みに、こんなものが流行っているなんて俺の大学も終わったなと頬杖をついた。
テーブルに置いていたタブレットを手元に戻してカシムが内容を読み上げる。
まず、10階以上あるエレベーターに一人だけで乗り込む。次にエレベーターに乗ったまま、4階、2階、6階、2階、10階へと移動し、この際に誰かが乗って来たら失敗。
10階に着くと降りずに5階を押す。5階に着くと若い女の人が乗って来るが、話しかけてはならず、1階を押す。するとエレベーターは1階には行かず、10階へ移動する。
「で、その10階が別の世界ですって訳なのよ」
「それにしても面倒くさい方法だよな、そもそも一人だけでっていうのが無理だろ」
この辺りだと10階以上の建物は多くあってもその分人口が多い。さらに言えば社員や関係者のみ入室出来る会社が多く、学生などが気軽に入れる建物は少ない。その時点で試す事が出来ない。
実行するには条件が多過ぎて無理だなとケラケラ笑う二人をよそに、アリババには思いつく場所があった。
あそこなら出来るかもしれない。
でも、やったところでどうにかなるわけじゃないし、所詮は都市伝説という部類で、誰かが面白がって適当に作ったものだし。
そう、頭の中ではないないありえないと何度も繰り返してはいるが、一度持った興味はなかなか冷めることなく、二人と別れた後も試してみたいという気持ちが膨らむ。 子供が冒険と称して学校の裏庭を探検したり、暗く狭い街中の通り道を歩いていく様な、そんな小さな期待と探求心が日が沈んでいくと共に胸に大きく占める。だって、気軽にいつだってそれを試せるんだ。
アリババの自宅から徒歩15分のところに11階まであるビルがある。
1階は保育園となっており、小さい頃はそこに通っていた。2階から5階は市の観光協会や地元の特産物を取り扱っている直営店があり、6階から9階は市民の休憩スペースや郷土資料などを置いた小さな図書館となっている。10階から11階は駐車場で、24時間開いている。
誰でも自由に出入り出来るが、保育園のお迎えが全て終わる8時頃には他の階の人たちもほとんど帰宅しており、居るのは警備員と図書館の管理者くらいだ。例の都市伝説を実行し、成功させるには十分な環境が整っている。
部屋にあるデジタル時計の時間を見れば8時45分と蛍光緑の文字で示されていた。時間も丁度好し。
「どうせガセネタなんだろうし、ちょっとくらいならいいよな」
自分の他に誰が居るわけでもないのに、一人ごちて夜風の冷える外に出た。


予想通りビルには人の気配がせず、どくどくといつもより早く脈打つ心臓を感じながらエレベーターのボタンを押す。
すぐに開いたドアには誰も入ってはおらず、にやりと口角が上がった。
別に禁止されているわけではないが、やらない方が良いという雰囲気に逆らう背徳感にわくわくと胸の内が落ち着かない。やるなと言われればやりたくなるのは子供の性だ。
4階、2階、6階、2階、10階と手順通りに階を進める。途中、誰かしら乗って来るのではないかと思ったが、どの階に行ってもがらんと静まり返っており人は居ない。事実エレベーターを占拠してしまっている状態だった。
5階のボタンを押してゆっくり息を吐く。エレベーター独特の下降していく感覚と共に思考を巡らす。
ある意味ここからが本当の問題だ、都市伝説の通りなら5階で女性が乗って来る。そしてそこから1階を押せば逆に10階へと行く。あり得ないことばかり。
さすがに5階に着いたらこの実験まがいの一人遊びもお終いかな。
5階に着いた音が鳴ると、ドアが開く。その瞬間赤い髪の少女に息をのみ込んだ。
少女はカツンと足音を鳴らしてエレベーターへと乗りこむ。思わず声を掛けそうになったが話しかけてはならないというタブレット画面に映っていた文字を思い出して口を噤む。
僅かながらに震える指先で1階のボタンを押す。
すると、ぐん、と上に上昇するエレベーターに目を見開く。6、7、8階と点灯していく番号に周りの音が全て無音になってしまったような感覚に頭が真っ白になる。
うそだろ。と、声には出さず口元が動いた。
少女の方を振り向けば、鋭い眼光と視線が合ってビクリと震えた。
1階を押したはずなのに上の階へと上昇するこのエレベーターを変に思わないのだろうか。
ドッドッドと心臓が大きく脈打ったまま高い機械音と同時に背後のドアが開いた。
それと同時に黙っていた少女が口を開く。
しかし、少女から声が発される前に恐怖心から後先考えず後ろ足でエレベーターから降りる。それゆえ、目を大きく見開いた少女が発した警告の言葉はすぐに閉まったドアのせいで聞き取ることが出来なかった。

未だに大きく脈打つ心臓を落ちつけるように抑えながら、
閉まったドアに背を向けると一段と大きく心臓が高鳴った。
「どこだよ、ここ」
アリババが降りたその階は、本来なら駐車場でなければならないその階には、一面真っ黒な壁に覆われておりその中心に一つだけぽつりと木製の看板が掛けられた白い扉があった。
高鳴る心臓そのままに、看板の掛けられた扉の前に立つ。木製の看板にはレトロな字体で玩具堂と書かれていた。
背後のエレベーターを一瞥して金のノブに手をかけた。

扉を開けた先には、子供たちの理想の世界を詰め込んでみましたとでもいう様な、そんな光景が広がっていた。
壁には色とりどりのクレヨンで花や蝶、鳥や魚が好き放題に描かれており、木製の温かみのある棚には子供が好きそうな図鑑や絵本、箱に入ったままのおもちゃや人形が収まってはいるが、入りきらずに床に散乱している。
さらには縦横無尽におもちゃの汽車が走っており、その荷台には積木やぬいぐるみ、おもちゃの兵隊などが乗せられていた。
足元に散らばっているおもちゃを踏まないように下を向きながら気を付けて進むと、目の前を目が覚めるような青が通り過ぎた。
顔をあげれば、ぱたぱたと不規則な動きで鮮やかな色の蝶達が飛び交っていた。放し飼いしてんのかよ。
呆気に取られてぽかんと口を開けているとクスクスと周りから笑い声が聞こえてきた。
誰か居るのかと周りを見回してもおもちゃとぬいぐるみしかいない。
首を傾げるとまたクスクスと笑い声が降って来る。
腹立たしさと気味悪さに店を出ようと出口の方へ踵を返したところで、目の前の人物に悲鳴をあげた。

いつの間に背後に立っていたのかこの人は。
驚きのあまりに後ずさり、積木に躓いてこけそうになった俺の腕をぐいと手前に引いて、子供に言い聞かせる様な柔らかい声で「大丈夫?」と嬉しそうに笑った。
珍しい銀の髪と、呑み込まれそうな深い漆黒のオニキスの瞳に懐かしい、と何故だかそう感じた。

腕を掴まれたまま、奥のテーブルへと連れていかれる。
椅子を引かれ、座るよう促されたところで俺は首を左右に振った。
「あの、別に俺は買い物をしに来たわけじゃ無いので帰りますね。冷やかしみたいにお店の中を覘いてすみませんでした」
「そう固いこと言わないでください。せっかく久々にアリババ君が来たんですから、店の中のおもちゃ達もこんなに喜んでるのに」
この店には初めて来た。それになんで俺の名前を知っているのだろうか、訝しげに彼の顔を見るとにこりと笑った。
「この通り年中閑古鳥が鳴いているからね、暇なお店に冷やかしは大歓迎ですよ」
俺の言いたいのはそういう事じゃ無いけれど、どうにも反論する気が起きなくて差し出されたカップに口を付けた。
苦い珈琲の味が口に広がって眉をしかめる。
この年になってもあんまり珈琲は好きじゃない。どうしても苦味には慣れなくて、仕方なく飲むときには大量の砂糖とミルクを入れて飲むことをいつまでたっても周りから小馬鹿にされるくらいには苦手だ。
「珈琲は苦手だった?」
ごめんね、と申し訳なさそうに言う彼に苦く笑うと、テーブルに置いたカップを小指でコツンとはじかれた。
これならどう?そう言われてカップを覗き込むと、さっきよりもより深い色になった珈琲の中身と、打って変ったような甘い香りに首を傾げる。
口を付けると甘く口いっぱいに広がるとろりと濃厚なチョコレートの味に目を丸くした。
「チョコレート・ドリンク?」
「お気に召したかな?」
こくこくと頷きながら興奮と驚きに目をぱちくりとさせる。もう一口含むと、確かに甘い味がじわりと舌の上で広がって改めて本物だと理解する。
「凄い!さっきまで珈琲だったのに、手品ですか?」
「おや、心外ですね。イカサマなしの正真正銘の魔法ですよ」
おどけたように言う彼に思わず吹き出して笑ってしまった。そんな嘘じゃ、騙されませんよ。
冷めないうちにカップの残りを全て飲み干すと、ホッと息をついて肩の力を抜いた。
「じゃあ、俺の名前が分かったのも魔法なんですか?」
「それに関しては魔法なんかじゃないですよ。アリババ君は前にもこの店に来たでしょう?憶えてないんですか」
「俺、こんなところ初めて来ましたよ?」
「それはおかしいですね、じゃあ私の名前も憶えてないのですか」
憶えてるも何も、初めて来たんだから知らないのに。
ぷくりと頬をふくらますと彼は笑いながらカップに角砂糖を2つ入れて、チョコレート・ドリンクを注いだ。さすがにそれじゃあ甘過ぎますと遠慮する。
「前来た時は喜んだのにね、まぁそれだけ君も成長したってことかな」
「だから初めて来たんですってば」
ああ言えばこういう。初めて来たって言ってるのに、誰かと勘違いしてませんか?いいえ、君ですよ。私がアリババ君を間違えるわけないでしょう。でも、本当に初めてここに来たんです。こんなところ印象強くて一度来たら普通忘れませんよ。現に忘れてるくせに。でも思い出せないなら仕方ないですね、改めて自己紹介を、ジャーファルと申しますどうぞよろしく。どうも、アリババって言います。知ってますよ。そう、みたいですね。
にこにこ笑う目の前の彼、ジャーファルさんは結局なぜ俺の名前を知っているのか教えてくれなかった。
もしかして下の保育園で、個人情報でも漏れていたのかなと考えていたら「違いますよ」と即答されてひきつった笑みを浮かべた。なんで考えてたこと読まれてんの、読心術かよ。
君の事ならなんだって知ってるんですよ。
その言葉に腑に落ちないといった顔をすると、よしよしと頭を撫でられた。
やめてくださいよと頭を振ると、「前は喜んでくれたのにね」と返され何とも言えない顔になる。何度初めてこの店に来たと言えばこの人は理解するのだろうか。
「それにしてもたくさんおもちゃがありますね」
「全部、アリババ君の為だからね」
「もうおもちゃで遊ぶ年じゃないですよ」
苦笑すれば、年なんて関係ないですよと真顔で言われて返答に困る。
「でも、君が喜んでくれないのならこの子たちも存在する意味が無いね」
「そういう言い方をされると俺が悪いみたいで嫌です」
「どうして?アリババ君は何も悪くないですよ、君の心を引けないこの子達が悪いんだから」

ね?そうは思いませんか

笑顔なのに、綺麗に笑っているのに、どこか歪んだような笑みに背筋がぞくりと震えた。
そうした俺の僅かな反応に気がついたのか、目じりを下げて申し訳なさそうに頬を撫でた。ごめんね、怯えさせたかったわけじゃないんです。ただ、あまりにも久々だったから、約束なんて遠の昔に忘れて、もう君は来ないのかと思ってたから。ごめんね。
「約束、ですか?」
「そう、約束。憶えてない?」
だから、憶えてるも何も知らないと、言おうとしてやめた。
俺の沈黙を肯定と受け取ったらしいジャーファルさんは憮然な顔をしつつも「それでも、会いにきてくれて、約束を果たしてくれて嬉しいですよ」とするりと最後に頬を撫でて息をついた。
なんだか俺の方が申し訳なくなって委縮してしまう。顔を合わせる気にならなくて、テーブルの下を向けば椅子の間を汽車が通り抜けた。
汽車の荷台から逆さまに転げ落ちてしまった兵隊がばたばたと手足を動かす姿を見て、少しだけ心が軽くなった気がした。
兵隊を起き上がらせると失礼だとは思いながら、目線をそらしたまま言葉を零す。
「あの、このお店には本当に来た記憶とかなくて、実際に来たことなんてないと思うんです」
そう、と悲しそうな声が鼓膜に響いて短く呼吸を止めた。
「だけど、初めてジャーファルさんを見た時に何故か懐かしいってそう思ったんです」
「それは、本当ですか?」
「はい」
恐る恐る顔をあげればジャーファルさんはふむふむと考え込んでいた。
どうしようかと、そわそわと落ち着きなく目の前の冷え切ってしまったカップを見つめていると急に声をかけられてがばりと顔をあげる。見れば満面の笑み。
「意識の中では無く、無意識の中で憶えていたんですね。それもこの店自体ではなくこの私を」
「えっと、それは一体どういう事でしょうか」
「簡潔に言えば、益々アリババ君が手放しがたくなったという事でしょうか」
簡潔すぎて余計に分らない。
とりあえず適当にはぁそうですかと相槌を打っておくと、ジャーファルさんは満足そうに笑みを深めた。
機嫌が直ったのならよくは分かんないけど良いのかなと冷めきったカップに口を付ける。冷めてもおいしいとか。いや、元々はチョコだからそりゃ冷めても温めても美味しいもんなのかな。
カップをコトリとテーブルに置くと同時に店中に鐘の音が響いた。
驚いて一番音の大きかった方へと顔を向けるとアンティーク調のからくり時計から青い鳥がカラカラと出てきて高い子供の声で時刻を告げた。
『10時56分21秒、檻から逃げ出すには打って付けだよ』
音楽と共にくるくる回る青い鳥に目を奪われながら、腕時計を確認する。時間はぴったり。
「秒単位まできっちり合ってるんですね。それにしてもなんでこんな中途半端な時間に?」
「時間の正確さには折り紙つきなんですが、なにぶん私に反抗的でいつも半端な時間に時刻を告げるんですよ」
「時計に反抗的なんてないでしょう?」
クスリと笑えば、もどかしそうな顔でジャーファルさんが苦々しく言った。それがあるんですよ、困ったことに。
ホラ吹きもいい加減にしないと怒られちゃいますよ?嘘じゃないんですけどね。それは失礼しました。君、全く失礼だと思ってないでしょ。ぐに、と頬を引っ張られると降参とばかりに手をあげた。すみませんごめんなさい本心から失礼しましたお願いですから放して下さい!
笑われながらぱっと放された頬は赤みが増していた。ひどい。
少しひりひりとする両頬をさすりながら恨めしく睨むと「そんな目で見られるとまた引っ張りたくなりますねぇ」と言われてさっと顔をガードする。俺の俊敏な切り替えにジャーファルさんが吹き出した。ひどい。
「それじゃあ、俺はそろそろお暇させていただきますね」
「もう帰っちゃうんですか」
「もう、なんて時間じゃないですよ。あと1時間もすれば日付が変わっちゃうじゃないですか、長々と居座ってすみませんでした」
「全然迷惑なんかじゃないですよ。もっと居てくださって構いません」
何を言いだすんだろうこの人は。おかしくてクスクス笑ってしまう。
「俺が構いますから。明日は学校がありますし、それに時計の鳥だって逃げ出すには丁度だって言ってたじゃないですか」
「つまりアリババ君からすると此処は檻だと」
「随分居心地のいい檻ですけどね」
じゃあこれで、と席を立つと少し待っているように言われて背を壁にもたれる。ひらひらと目の前を自由気ままに飛んでいる蝶に手を伸ばすと指先に止まった。指先に感じるくすぐったさに頬を緩めた。
「あんまりそういう顔を他に向けられると妬いてしまいます」
声のした方へ視線を向ければムスリとむくれたジャーファルさんが瞳に映った。
その手には小ぶりの指輪があった。中央には円形にカットされた淡いミントガーネットの宝石がきらりと輝いた。
「はい、お手」と言われるままに右手を差し出すと指先に止まっていた蝶がひらりとまた飛んで行った。あーあ。飛んでっちゃいましたよ。そうした俺の呟きを気にも留めず小指に指輪をはめられた。
ぴったりとはまった指輪を抜こうとして制止させられる。
「受け取れませんよ、これ宝石じゃないですか」
「そんなに値が張るものじゃないですよ」
「受け取れませんってば」
「では、預かってもらうということで」
小首を傾げると、だって受け取れないんでしょう?だったらまた返しにきてくださいねと微笑まれる。
「それは強制ですか」
「強制ですね」
「じゃあ次に来る時はお茶菓子も要求しますよ」
「とびきり美味しいものを用意してあげますよ」
お菓子で釣るなんてジャーファルさんは悪い大人なんですね。大人は大体悪い生き物なんですよ。
「ジャーファルさんの悪魔っ」
「御名答」
意地悪く笑うもんだからこちらとしては面白くない。
そんな俺を笑うように汽車の荷台から猿のぬいぐるみがタンバリンを叩いた。面白くない。
「来週、また来ますから。お菓子をたくさん用意しておいて下さいね」
「仰せのままに」
わざとらしく頭を下げるジャーファルさんにツンと澄まして出口に向かう。手をドアノブに掛けたままぱっと振り返ってべーっと舌を出せば、愉快そうに音を殺して笑う姿が目に映って憤慨したままバタンと大きな音を立てて扉を閉めた。

下降するエレベーターの中、熱く感じる小指の指輪をきゅっと包んで吐息を吐けば、背中に感じる人の気配に振り返る。
見れば、からくり時計の鳥と同じ真っ青な青い髪の子供が居た。何時の間に乗っていたのやら、全く気がつかなかった。
こんな時間に子供が一人で居るなんておかしいとは思いつつ、1階への到着の音と共にドアから出る。

「もう二度と来ちゃいけないよ、アリババ君」

子供にしては低く静かに告げられた声に、バッと後ろを振り返るもそこには既に閉じてしまったドアだけで子供の姿は無い。
きっと疲れてるから変な錯覚でも見てしまったのかなと一人自己完結して自宅へと足を向けた。
月の光できらりと輝く小指のガーネットに破顔して、新しく出来た来週の楽しみに胸を躍らせた。


「また邪魔してくれましたね」
「僕はアリババ君を助けただけだよ」
身長が足りないため、昔の彼がそうしていたように図鑑を数冊乗せた椅子に座り、足をぶらぶらと揺らす青い髪の子供に舌打ちする。
不穏な空気を感じ取ったのか、テーブルの下に進もうとしていた汽車がゆっくりと後退した。賢明な判断だ。今なら故意に踏みつぶして壊しかねない。
「あと少しだったのに、それに何ですか?檻なんて例えて失礼にもほどがあるでしょう」
「本当の事じゃないか、アリババ君にとってこのお店は檻だよ」
「君だって彼が好きなら閉じ込めたいとは思わないんですか」
「僕はアリババ君が大好きだからこそ、檻から逃がすんだ。ここじゃきっと彼は幸せになれないよ」
紅茶を口に含んで挑発するような視線を向ける目の前の子供にイラつく。
顔の横をひらりと通った蝶を掴まえてぐしゃりと握り潰すと「おっかないね」と坦々とした声に益々イラついた。
「今度邪魔したら針金で巻きつけてやりますよ」
「そんなことしたらアリババ君が泣いちゃうよ、僕に色を付けてくれたのは彼だって事忘れちゃったの?」
「いちいち癪に障る事を言いますね」
「いちいち嫉妬するジャーファルお兄さんも同罪だよ」
「無機物のくせにおしゃべりが過ぎますよ」
「長い時間がたてば物にだって魂は宿るさ、現にこの店に生きていないものなんてないよ」
反対意見を延々と聞いていても機嫌は下がって行く一方。
ブラックコーヒーが並々と入ったままのカップを手から離す。垂直に落下したそれは、大きな音を立てて砕けた。箒と塵攫いを持ってきた兵隊のおもちゃがせっせと片づけ始める。
「君とは何度話してもそりが合わないですね。これにてお開きとしましょう」
次に来たらもう逃がさない。既に子供が消えた椅子を睨みつける。
3度目には必ず掴まえる。いや、掴まえないと、閉じ込めないといけない。そうじゃないと、あの子は二度とここへは来ない。来ることが出来ない。
不確かでありながら確実なそれは、予言なんてあやふやなものよりもずっと確かな確信だった。


翌週、宣言通り指輪を返すために先週来たビルの中へと入る。
相変わらず人は居らず、エレベーターのボタンを押す。
手順良く進んでいくエレベーターの中、またあの少女が乗って来るのだろうかと5階を押した。
開いたドアからカツリと靴の音を鳴らしながら赤髪の少女が入る。相変わらずの鋭い視線に息が詰まる。早く上の階に着いちゃわないかなと小さく身を縮ませていると、はっきりした声で言われた。
「日付を超える前に、絶対に戻ってきてください」
へっ?っと、うっかり出そうになった声に慌てて口元を塞ぐ。
そんな俺の様子にはお構いなしに少女は言葉を続けた。
「12時を過ぎれば一生あの店から出ることは出来ません。店の中にアラジンは居ますが、時刻を告げるだけの事しか出来ません。だから、アリババさんが逃げ出さないと意味が無いんです。いいですか、絶対に、絶対に日付が変わる前に戻ってきてください。三回目のこれが最後です。」
捲し立てる様に詰め寄られる焦りと、小指にはめられた指輪が焼けるように熱く感じて、開いたドアから慌てて降りる。
閉まりきってしまった無機質なドアに「まだ来て2回目だっての!」と心臓の激しく脈打つ音を誤魔化すみたいに叫んだ。

目の前にはテーブルから溢れんばかりのお菓子が積み重なっており、ゆらゆらと危なげに揺れる場所を回避し、安全そうな所からドーナツを引き抜いた。
冗談でたくさんのお菓子を用意してくれと言ったものの、本当に用意されているとは思ってなかった。
というか、これは多過ぎだと思う。多様多種なお菓子が積み重なっている様は爽快だが限度というものがある。
「ジャーファルさん、これじゃあジェンガです。雪崩が怖くて食べれませんよ」
「すいません、つい張り切っちゃって」
張り切り過ぎでしょう。
お菓子の山で相手の顔は見えないけれど、声音からして楽しそうだ。
ぱくりとドーナツを口にくわえると席を立って指輪を突きつける。
「ほへ、はへひはふ!」
「お行儀が良くないですよ。時間はたっぷりあるので、座るか食べるか話すかどれか一つにしましょう」
それは確かに正論だと思い、席についてもぐもぐとドーナツを口に詰める。途中、詰め込み過ぎて苦しくなり紅茶を一気に仰いだ。
どすんと、胃の中が重くなる感覚が不快で注ぎ足された紅茶をさらに飲む。
ふ、と息を吐き出すと指輪をジャーファルさんに差し出した。
「約束通り、指輪返しますね」
「はい、どうも」
ジャーファルさんが指輪を受け取ると同時に鐘が鳴った。

『10時46分34秒、檻が閉まる前に逃げ出さないと』

青い鳥がくるくると回る。
脳裏に青い髪の子供が浮かんだ。音楽に合わせてくるりくるり、ぎこちなく回る青い鳥と寸分も違わぬ色をした子供。二度と来てはいけないと言った子供。
思えば、あの子供も先ほどエレベーターで出会った少女も不吉な言葉と俺の名前を知っていた。
俺の個人情報はどこまで駄々漏れしてんだよ。小学生の時の連絡簿からかな。あの頃は知らない人に友達の連絡先を教えてしまっただのなんだのと、そういう事が多かった。
成人した先輩たちは、二十歳の頃合いになるとひっきりなしにセールスの電話が掛かってきて困るんだよと愚痴ってたな。小学生が成人するころまで忍耐強く待つ輩にある意味感心する。真面目に働けよ。
「そんなに眉間にしわを寄せて、何考えてるんですか?」
むぐっとクッキーを口に突っ込まれる。自分から質問をしておいて答えさせる気無いですね。
サクサクと歯ごたえのいいクッキーを咀嚼すると紅茶を流し込む。なんで甘いものって喉が渇くんだろう。
「ジャーファルさんって何で俺の名前を知ってたんですか、怒らないので本当の事を教えてくださいよ」
「何度も言うように君が以前店に来た時からですよ、君が昔々に来た時にアリババ君自身が教えてくれたんですよ?」
「だからそんな記憶ありませんって」
ほんと、なんで憶えてないんでしょうね。物覚えが悪いのかな?んなっ!失礼ですね!俺これでも結構頭いいんですからね!だから不思議なんですよね。まだあの時は幼過ぎたから忘れてしまったのかな。
「じゃあ、アリババ君。あの人形に見憶えない?」
すっと長い人差し指が指した先は、積木のお城にくたりと置いてある赤い髪の人形だった。
手に取ると、少し埃がついているのが分かり、ふっと息を吹きかけた。
「この前来た時には全然気付かなかった」
人形の顔は見憶えがあった。子供には向かなそうな鋭い目つき。エレベーターの中で会った少女そっくりだ。
でもそれだけじゃない。もっと昔に、もっと幼いころに。v もどかしいもやもやとした感情が分からず、それを埋める様にしげしげと人形を見ていると、突然人形が左右に手を振った。
機械が入っている人形なんかじゃなく、本当に自然な生きてる人間みたいな動きに驚いて悲鳴を上げる。反射的に空中へと放り投げてしまった事に気付いたころには人形は落下し始めていた。売り物だったことにハッと気づいて慌てて抱きとめる。上手くキャッチしたことにホッとして胸に抱えた人形を見るとムスッとした表情に変わっていてまた放り投げそうになった。
「ジャジャジャジャジャーファルさん!」
「はい、なんでしょう?」
「この人形うっうっ動きましたよ!?こう、手を左右に振って!それに表情まで変わってっ!?」
怪奇現象にうろたえる俺とは打って変わって、ジャーファルさんはのんびり座って珈琲を啜っていた。なんで驚かないんですか驚きましょうよ!?
今度はプクーっと頬を膨らませた人形に目を白黒させる。しかし、それと同時に何か引っかかる。
何?何が?もやもやとしたまま人形を持って固まっていると、人形は少し寂しそうな顔をしてまたゆるりと手を振った。幼いころの自分の声が脳内で響く『またね』
あ、この光景は。

霞んでいた視界が一気にクリアになった様な、そんな感覚だった。

「・・・ジャーファルさん、俺、この人形夢で見たことある気がするんですけど、もしかして今俺は夢を見てるんでしょうか?お店も、ジャーファルさんも、この人形も夢なんでしょうか?」
「憶えてたじゃないですか、でも夢じゃないですよ。ちゃんとした現実ですから」
「や、でも、ちょっと俺の頬抓ってくれませんか?」
「残念ながら抓るというのはちょっと遠慮させていただきますね。引っ張るというような比較的柔らかいものならいいのですが抓るとなるとアリババ君の綺麗な白い肌に傷がついてしまうかもしれないでしょう?それを考えるとわたしにはとてもじゃありませんが抓るなんて残忍な行為は出来ませ「あ、いいです。自分でやります」
ギュッと思い切り頬を抓ると痛みが走った。わ、現実だった。夢じゃなかった。
そうやって意識するとおぼろげだった記憶が見えていなかったところまではっきりとしてくる。
目から鱗が落ちるみたいに、急に店の中がなつかしく思えた。
ぱくぱくと魚みたいに口を動かす俺に、ジャーファルさんが「全部思い出した記念にケーキでも食べましょうか」と笑った。
俺の中でのジャーファルさんの認識は、話を聞いてくれない変わった人から、懐かしいお兄さんへと見方が変わった。

人形を抱えたまま、ぽつりと呟いた。まじかよ。


チョコレートケーキを頬張りながら店の中を見渡す。
はっきり思い出すと、積木のおもちゃも、散乱した動物図鑑も、色とりどりのボールもどれもこれも懐かしくてしょうがない。
何時の間にやら俺の肩に陣取っているモルジアナに、ケーキに乗っていたラズベリーを渡すとムスリと頬を膨らませて食べた。怒っているのか喜んでいるのか分からない反応も懐かしい。
それに今なら店中にある大体のおもちゃや人形の名前を言える自信がある。なんだかんだで俺の記憶力はよかったのだ。流石俺。
「本当に、なんで俺このお店の事忘れてちゃってたんでしょうね」
「それはこっちが訊きたいかな」
意地悪く笑うジャーファルさんに目を背ける。前はもっと優しかったのに、今は少し意地悪だ。
フォークを咥えたまま、何で忘れてしまったのかを考える。一番あり得る可能性としては、お袋が亡くなった時のショックとか、そこいらかな。あのあたりの記憶は薄い。脳はよく出来ているもんで、時に体にまで支障を与えてしまうほどの辛さと対面した時に、その記憶をすっかり忘れてしまうらしい。生きるための自己防衛みたいなものだとか。
そうやって考え込んでいる時に大きな音が鳴ると吃驚するのは当然の事で、鐘の音にビクリと跳ねた俺にあたふたとモルジアナがしがみ付いた。

『11時44分59秒、檻が閉まる前に逃げて、ねぇ早く、早く』

くるくると回る鳥に、なんだ時計かと胸をなでおろす。
確かにこの時計はジャーファルさんに反抗的だった。時間は正確なのに、時刻を知らせるタイミングは自由気まま。
「あの青い鳥、俺がペンキで塗ったんですよね」
「そうですよ。よく憶えてますね、では鳥を取り出そうとして脚立から落ちそうになった君の下敷きになったのは憶えてますか?」
「・・・その件に関しては本当にすみませんでした」
「別に構わないんですけどね。子犬くらいの重さでしたから」
「俺そこまで軽くなかったですライオンくらいの重さはありました」
「はいはい、子ライオンですね」
視線を合わせてくすくすと二人で笑えばまた鐘が鳴り響いた。
『11時47分53秒、時間が迫ってるよ、早く逃げ出して』

今日はよく鳴くなぁと思いながらも、そろそろ帰る時間だなと椅子から立とうとするとジャーファルさんもう少し居るよう言われた。
せっかく思い出してくれたんですから、もっとおしゃべりしませんか?幸いお茶もお菓子もこんなにあるんですから。
山積みされているお菓子の山に、これを消費するには1週間は掛かりそうだと苦笑う。
「俺、ガキの頃にエレベーターのボタンが全部届く様になったのが嬉しくて滅茶苦茶に押しまくってたんですよね。そしたらたまたまこの店に着いて」
「ああ、ぴょんぴょん飛び跳ねては届いたんだよって自慢してましたもんね。あんまりにも可愛らしかったので昨日の事の様に憶えていますよ」
「そういう記憶は忘れてください」
「残念ながら忘れる気は毛頭ないですよもったいない」
『11時49分35秒、僕の言葉を忘れちゃったのかい?早く逃げないと』
短い間隔で再度鳴った時計に違和感を感じる。

「ジャーファルさん、あのからくり時計って「そんなことよりも話をしましょう」
カップに紅茶を足され、飲むように催促される。からくり時計の言葉を気にしつつも有無を言わさない雰囲気に負けて、カップに口を付ける。モルジアナはそわそわと落ち着かない様子で俺の肩を右から左へ行ったり来たりしていた。
頭を撫でて宥めても、落ち着く気配のないモルジアナに首を傾げる。どうしちゃったんだよ?
『11時53分12秒、帰れなくなるよ?ねぇ、逃げて、早く逃げてったら!』
「ジャーファルさん?からくり時計もモルジアナも、何か様子がおかしいですよ?それにさっきから逃げろとばかり言って」
「時計の事は放っておきましょう、あれもかなりの年代物ですから調子が悪いだけですよ」
「でも、それにしては声が悲痛ですよ!?調子が悪いだけじゃないです!絶対に!」
「大丈夫ですよ、よくあることです。それよりも話を。たまには私から話をするのも良いかもしれませんね」
『11時54分16秒、今ならまだ間に合うから!早く逃げるんだよ!急いでっ!』
掠れた子供の声に耐えきれず荒く席を立つと、細身の腕からは考えられないくらいの強い力で床に押し倒される。
突然の事に声も出せず、目を大きく見開いた。ジャーファルさんはどこまでも穏やかに笑っているけれど、酷く瞳が冷たい。
床に打った衝撃で背中がギシリと痛む。なんで、なんで。
「人の話は大人しく聞くのがマナーですよ?」
馬乗りになって年下の頭を馬鹿力で抑えつけて話すのはマナー違反じゃないんですか。
体を起き上げようと身をねじると余計に押さえつけられて体が軋む音がした。

『11時56分23秒、逃げて!この店から早く逃げて!逃げてよ!』
「昔にね、小鳥を掴まえたんです。小さな金の鳥を」
『11時56分30秒、起き上がって!走って!逃げて!』
「大事に大事に飼おうと思って、鳥籠の中に一度は入れたんです」
『11時56分35秒、話なんて聞かなくていいんだ!それよりも逃げて!』
「けれど、青い鳥が邪魔してね。その時は本当に小さな小鳥だったし、親鳥が呼んでいるのも分かっていたから逃がしたんです」
『11時56分45秒、アリババ君!モルさんの言った言葉を思い出して!』
「でも、やっぱり駄目だね。逃がした小鳥はずっと帰って来ることは無くて、用意していた鳥籠は錆びてしまったんです」
『11時56分55秒、この店で12時を過ぎると帰れなくなっちゃうよ!ねぇ逃げてよ!逃げてよ!』
交互に繰り返す焦燥した子供の声と落ち着いたジャーファルさんの声に、頭の中はぐちゃぐちゃで四肢は微かに震えていた。逃げろと青い鳥が何度も繰り返す様に、逃げなければいけないと脳が訴えるのに、怯えきった体は思うように動かない。
やめて下さい、離して下さいとうわ言のように繰り返すも聞き入れられない。
そもそも聞く気が無いのだろう、構わず言葉を続ける。
だけどね、つい最近。手放した小鳥が帰って来たんですよ。嬉しくて嬉しくて、今度は邪魔されない様に鳥かごに招き入れたんです。だからね、今度こそは絶対に、絶対に、

「逃がさないよ」

低い、冷たい声で耳元に囁かれ、全身の血の気が引くのが分かった。

一定の水準を超えた恐怖は勝手に体を突き動かした。
あらん限りの力で覆いかぶさる体を突き放すと、全力で扉まで駆ける。
床に散乱した積木やおもちゃを数回踏んでは転んだが、そのたびに素早く起き上がって駆けた。
からくり時計は『残り1分36秒!』と叫んだ。

息も絶え絶えになりながら、崩れそうになる足を叱咤してやっとのことで扉の前に立つ。
金のノブに手をかけた瞬間、昔の記憶がフラッシュバックした。
途端、ずるずると力なく床に座り込む。
幼なかったあの日に、悲しそうな顔で手を振ったジャーファルさんの姿が脳裏に焼き付いて離れてくれない。
青い鳥は急に座り込んだ俺に戸惑うように叫び続けた。
『どうしちゃったんだい!?アリババ君、ねぇ立ってよアリババ君!もう1分を切ってるよ、このままじゃ間に合わなくなる!』

行かなきゃ、逃げなきゃ

しかし、立ち上がろうとしても足が動いてくれない。否、動かせない。
だって俺が逃げてしまったらジャーファルさんはどうなるんだよ。
また一人でずっと悲しい顔して待ち続けるのかよ。
きっとこの扉を開けたらもう二度とこの店には行けない。何故だか分かる。
迷いを振りほどけないまま時間が過ぎる。ずっと待っててくれたのに、俺は逃げ出すのかよ。あの人を一人にして、逃げ出すなんて。

「そんなの、出来るわけないじゃんか」

金のノブに伸ばしていた手をだらりと下げた。ほとんど声にならない叫びをあげる鳥の金切り声にごめんと呟く。
逃がそうとしてくれて、ありがとう。でもごめんな、檻の中に飛び込んだのは俺からだったんだ。
だから、これは俺が選んだことだから大丈夫。大丈夫だよ。
カチリと秒針の針が12の数字を指すのと、一層けたたましくなる鐘の音にごくりと唾を飲み込んだ。
そろりと後ろから抱きしめられてくたりと体を預ける。誰が抱きしめているかなんて顔を見なくても分かってた。

「やっと、掴まえた」

心底嬉しそうな声に、これでよかったんだと意識を闇に預けた。
ガシャンと遠くで檻の閉まる金属音が聞こえた。

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