ジャファアリ/おにしょた

睨みつけるような、鋭い視線を受け流して溜息を吐いた。
「お前なんか嫌いだ」
「奇遇ですね、私も君の事が嫌いでしょうがないんですよ」
言えば、益々怒気を含んだ刺すような視線を送って来る。
そんなに睨んだって、私は死にはしないし、苦しみもしない。
そもそも君は私なんだから怖いとも思わない。嫌悪感だけが増す。こんな鏡、さっさと割ってしまうのが吉。
なんでまた、こんなところに足を運んでしまったのか、せっかく薄れた記憶が幼いころの自分の姿を目にして彩度を増した。見下す様に見れば、負けじと牙を剥きだす姿が嫌悪を通りこして、滑稽にすら思えた。だから過去の自分なんて嫌いなんですよ。
「意思を持つことが出来ても、そんな鏡の中に居ては意味が無いでしょう。慰めに、今日にでも消してあげますよ」
返事は無く、またも睨みつけてくる。全くもって愛嬌のないこと。あの子とは大違いだ。
床に落ちていた古びた布を拾い上げてバサリと鏡に掛ける。埃が舞い、少しせき込んだ。そろそろ此処も掃除するべきでしょうね。そんな時間なんてあるわけないが。
パタンと湿り気のある倉庫の扉を閉めると、通りすがった武官に倉庫の鏡を廃棄するように伝えた。
これでおしまい、残念でした。

手にしていた書簡を抱え直すと、さっさとその場を離れた。


見た目だけならば別段なんてことは無い物に、昔から酷く惹きつけられる事がある。
惹きつけられる物の種類は千差万別だ。ナイフだったり、砂時計だったり、櫛だったり古びた紙だったりもする。
欲しい、とは思わないがとにかく気になる。そうした物は大抵は悪い曰くのついた物だった。
物の逸話や重みはバラバラだけれど、どうしようもなく気になる。惹きつけられる。そうした物を見つけることが年に一度か二度あった。
目利きが良いと言えばそうなのかもしれない。
王宮を出て旅をしていた頃、市場で売ってあった鋏がどうも気になり、値段も安かったので買い取った。旅には邪魔だと伸ばしかけの髪をその鋏で切っていたところ、同じ荷馬車に乗っていた男が驚いた顔をして、鋏を見せてくれないかと言った。
鋏を手に取った男は感嘆の声を上げて、買い取らせてほしいと大金を出した。なんでも、二十年ほど前に処刑された殺人鬼の使っていた鋏だとか。男は薄く掘ってあるイニシャルをうっとりと指先でなぞりながら説明した。物好きな人もいるもんだと、使う気を失くして鋏を売った。
そうした悪いものは別に売れば大金に化けることもあるからいい。いくら気になると言えども、金と比べれば後腐れなく手放す。少しでも余裕のある生活の方がやっぱり大事だよな。うん。
けれど、そういった曰くつきの悪いものではなく、物、自体が悪いものに惹きつけられる事も時折あった。
持っていると何故だか具合が悪くなったり、怪我や病気の頻度が増えたり、不幸が続いたり。しかし手放せばケロリといつも通り。いつだって見つけた瞬間に惹きつけられると同時に、これは自分に害を与えると直感する。けれど気になって手に取ってしまう。いい加減に学習しようとは思うのだが、気がつけば手元にある。体が勝手に動いている。どうしようもない。
本当に、どうしようもないのだ。

部屋に置かれた大きな鏡を前に腕を組み、胡座で座る。うんうん唸っていると、ばふりと後ろからアラジンに抱きつかれて、寝台の上から落ちそうになった体を寸でのところで持ち堪えた。元気が良いことは何よりだとはと思うが、加減を知れ。加減を。
よいしょとアラジンを前の方へ抱き抱え直して、わしわしと頭を乱暴に撫でてやると「やめておくれよぉ」と反対の声をあげながらもキャッキャとはしゃぐ。何だよ嬉しがってるくせに。余計わしゃわしゃと頭を撫でた。
「ところでアリババ君、その大きい鏡はなんだい?」
「んー、これか?武官の人が処分しようとしててさ、なんだか妙に気になって貰ったんだ」
どうせこの部屋鏡が無いんだし、捨てちまうにもこんなに立派な鏡だともったいないだろ?そっか、でもアリババ君、その鏡。何だ?ううん、やっぱり何でもないよ。それよりも中庭の方に行こうよ!モルさん達が森から果物をいっぱい取ってきたから皆で食べようって話してたんだ。そうなのか?うん。アリババ君を呼びに来たつもりだったのに、すっかり忘れちゃってたよ。
うへへへと悪びれなく笑うアラジンに軽くデコピンをして、寝台から下りた。
酷いなぁ、とぼやくアラジンと手をつないで部屋を出る。ちらりと後ろを振り返ると、鏡に自分達以外の何かが映った気がした。目をこすってもう一度見るが何もない。首を傾げると、早く行こうとアラジンが俺を急かした。あー、こらこら袖引っ張んなよ伸びちまうだろ。デコピン追加。

小突き合いながらパタンと扉を閉めた。子供の視線には気付かないままに。


誰かに呼ばれた気がして振り返るが、部屋には大きな鏡と俺だけだった。

ごろりと寝台に体を寝かせて鏡を眺める。先日、処分されようとしたところ無理を言って貰った鏡。
見た瞬間、どうしようもなく惹きつけられた。今度はこいつかぁ、なんて思いながら達者な口は既に鏡の交渉へと移っていた。
よいしょと起き上がり、鏡の金の額を指先で撫でた。曰くつきの物ではないな。だって、これは危害を与えるものだと直感が言っている。嫌な感じがする。けど、ああやっぱり駄目だな。視線を外せない程に惹きつけられる。
ツゥ、と鏡の表面を撫でると、水面の様に揺れた。
驚きのあまり、声も出せずに固まる。もう一度鏡に触れると、いくつもの円を描いて揺れた。

何だ、これ。

ハッとして慌てて触れていた手を離そうとしたが、悲しきかな、それは無理だった。
とぷん、と大きく波立って鏡の中からずぶりと子供の手が出てきた。怖っ。
しかし悲鳴よりも先に、その小さな手は俺の手首を掴んだ。氷の様に冷たい温度に一瞬死体なんじゃないかとすら思った。むしろ、死体の方が良かったかもしれない。死体ならば、こうして動くこともないだろうに。
掴まれた手は、子供の手には不釣り合いなくらいの力で俺を引っ張った。このままじゃ鏡と顔面衝突だ。
ギュッと反射的に目を瞑る。
だが、想像していた衝撃は訪れなかった。代わりに、どぷんと温度の無い水に飛び込む様な、気持ちの悪い感覚に全身が包まれて、ぶわりと鳥肌が立った。
ところが、その気持ち悪さも一瞬の事で、不快感の無くなった事に疑問を感じて目を開ければ、そこはさっきまで居た部屋ではなくなっていた。
へ、と間抜けな声をあげると同時に、口からプカリと丸い気泡が上へ上へと昇って行った。目の前を名前も知らない魚が横切る。そしてふわりと浮かぶ浮遊感。まるで海の中だ。
呆けたままふわふわ浮かんでいると、ぐい、と強い力で腕を引っ張られた。驚いて声をあげると、ごぼりと大きな気泡が出た。魚になった気分だ。えら呼吸じゃないけど。
振り返ればところどころ体を包帯で巻かれた子供がいた。端切れの様な上着と、解れてしまっている包帯がゆらゆらと波に揺れていた。目つきは鋭く、好感を持てるかと言えば首を振るがこれはよかったと質問する。なぁ、此処って一体どこなんだ。俺、元居た場所に帰りたいんだけど。
けれど子供はすぐに返事をすることは無く、長い間を空けてぽつりと呟いた。

「鏡」

ぱちりぱちりと瞬きする。え、うん?
答えてもらったけど意味分かんなかった。でも俺の読解力が無いだけじゃない。てか、俺頭いーもん読解力は人並みにあるもん。
此処は何処かなって聞いたんだけどなーっと頭をがしがしとかけば、もう一度「鏡」とだけ答えた。もっと詳しく。
「此処は鏡の世界、俺はあいつの記憶。あんたは帰れない」
「は!?」
待て待て、お前意味わかんねーしどういう事だよと喚くと、煩いと短く叱咤されて腕を引かれた。さようなら年上の威厳!今までありがとう!
ぐいぐいと引っ張られて、よたよたと老人みたいに歩く。
どこに向かってんだよ、なぁ。無視すんなっての、おいチビ。
チビの言葉に反応したのか。無言で歩みを進めていた子供がくるりと振り返って足を止めた。
波に揺られて子供の顔を覆っていた包帯が大きく揺らいだ。人間目を隠すだけで誰か分からなくなるが、その逆もまたしかり。
見なれたそばかすと黒い瞳に、知っている人物と顔が重なる。
嫌、まさかな、そんな事って、無いだろ。無い無い絶対無いって。
固まる俺をよそに、解けた包帯が波にさらわれない様に掴んで子供が言う。

「チビじゃない。ジャーファルだ」

嘘だろ。ああ、でも、うわぁ、やっぱり。
あの人の聞きなれた声より幾分か高い声音に、くらりと目眩を起こした。


アリババ君が何処にもいないんだ。

ねぇ、ジャーファルお兄さんは何処に居るか知らないかい?
じっと探る様な目で聞いてきた少年と少女を見やる。左右に首を振ると困ったなぁと少年は呟いた。同じように困りましたねと少女も呟く。一緒に中庭で食事を取ろうと約束していたらしい。
「緑射塔に居ないのでしたら、銀蠍塔や黒秤塔に居るのでは?」
「探しに行ったけど居なかったよ。それにね、モルさんがアリババ君の匂いが全然しないって、ね、モルさん」
少女は怪訝な表情でこくりと頷いた。
王宮自体から、彼だけ居なくなったように匂いがしなくなったと言う。少しだけ嫌な予感がした。
「アリババ君、最近暇さえあればずっと部屋の鏡ばっかり見てたから、部屋に居ると思ったんだけどねぇ。何処行っちゃったんだろう」
言われた言葉に首を傾げた。君達の部屋に鏡なんてありましたっけ?この間アリババ君が部屋に置いたんだよ。捨てられそうになったところを貰って来たんだって。鏡、ですか。うん、金の額縁の大きな鏡だよ。でもね、僕あんまりあの鏡好きじゃないんだ。なんだか嫌な感じがするんだもん。あれ?どうしたんだいジャーファルお兄さん、顔色が悪いよ?いや、大丈夫。ちょっと疲れているだけですから。アリババ君は私が探しておきますから君たちは先に食べに行ってくるといいですよ。
大人しく頷いて手を繋ぎながら中庭の方へと歩き出した子供達を見送ると、急ぎ足で彼の部屋に向かった。
この嫌な予感が気のせいならいい、気のせいであればいい。けれど自分は嫌になるほどこういった勘が当たることをよく知っている。
それは今回も同じ事で、扉を勢いよく開けた瞬間目に入った見覚えのある鏡に舌打ちを鳴らした。他人になんて頼まずに、自分でさっさと割ってしまうべきだったのだ。
鏡に手を触れると波紋が浮かんだ。ゆらり、ゆらりとおぼろげに揺れて幼い自分が映る。
初めて自分に見せる余裕のある表情から、アリババ君の居場所ははっきりと確定した。この忌まわしい鏡の中だ。
憎らしさから鏡を割りたい衝動に掛けられるが、ぐっと我慢する。今割ってしまえばアリババ君を連れ戻せない。
それは困る。
「馬鹿みたいな事をしていないで早く彼を返しなさい」
「嫌だ」
「これは命令ですよ。返しなさい」
「あんたは俺だ、命令なんて聞かない。聞かない」
「私への意趣返しのつもりですか。だったら彼ではなく私を引きずり込めば良かったでしょう、彼は関係ない」
「あんたを引きずり込んだって、こんなに青くはならない。戸惑わない。関係は、ある。」
もっと困ればいい。苦しめばいい。俺だけ冷たいところに置き去りにして、あんたは温もりを掴んでんだ。
それだけ言うと、またもゆらりと鏡が揺れた。丸い波紋と共に子供も消える。冷や汗が首筋を伝った。
鏡の癖に、鏡の癖に、嫌なくらいに癪に障る。
だが歯ぎしりをする暇があったらアリババ君を連れ戻す方法を考えなければ。あの頃の自分のやることだ。最悪の場合彼を殺すことだってありえる。彼だって迷宮攻略者なのだから、早々に命を取られる事は無いかもしれないが、彼には聊か甘過ぎるところがある。子供だからと、刃を向けることができない可能性だってある。
胸糞悪い、最悪だ。
めったに口にしなくなった暴言を吐き捨てて、助っ人を呼ぶため部屋を後にした。
生憎と魔法道具は専門外だ。しかしヤムライハに聞けば何とかなるかもしれない。時折その研究熱心さから問題も起こすが、魔法オタクの愛称は伊達じゃない。
爆発音からガタガタと震えた扉をノックして、煤だらけの彼女に声をかけた。
彼女の研究室に持ってきた鏡をじろじろと飽きることなく観察して、多少の時間は掛かるが無理ではないと自信を持って言う彼女の言葉に、安堵の息を零した。
「ああ、でも一つ問題があります」
「何ですか?」
「この鏡の中に入る分はいいんですが、出る方法は分からないんですよね」
申し訳ないといった顔の彼女を一瞥して問題ないと声をかける。
「入口があれば出口もあるでしょう。自力で見つけ出せなくても、きっとアレが知っていますし」

それに、私拷問は得意ですから。大丈夫ですよ?
笑って言えば、ヤムライハが引き攣った笑みを浮かべた。


手を引かれて歩きながら、言葉を交わして分かったことを頭の中で整理する。
この海の底のような場所は、あの鏡の中で、さらに言えば普通の鏡ではなく魔法道具の一つだそうだ。
鏡は記憶を捨てる場所だそうで、嫌な記憶、忘れたい記憶を捨てることが出来る。ただ、捨てると言っても完全に忘れるわけではなく、靄がかかったように記憶が薄くなるという。そして捨てられた記憶は形となって意思を持つ。それが、俺の手を引いて歩く目の前の子どもだ。
それから俺が鏡の中に引きずられた理由。引きずり込んだのはこの子供で、言い分を聞く限り十中八九俺は巻き込まれただけだと思っていい。どうやらこの子供は曲がりなりにも同じジャーファルさんのくせに、ジャーファルさんの事が相当嫌いらしく、腹いせに俺を鏡に閉じ込めてあの人を困らせてやろうというなんとも子供らしい理由だ。理不尽だ、俺関係ないじゃん、そういうのは自分達だけでやって欲しい。ハタ迷惑だ。
「ジャーファルジュニアさーん、いつまで歩くんですかー、俺足が疲れてきたんですけどー」
返事は無し
「ジャーファル二号さーん、何処に向かってるんですかー、というか元居た場所に返して下さいよ。俺なんかよりクーフィーヤとか、重要な書簡の方がジャーファルさんも困ると思うんですけどー」
またも返事無し
「ちびっ子ジャーファルさーん、なんか返事してくださいよ―」
「さっきから変な名前で呼ぶな鬱陶しい煩い黙れ」
返事あり、口悪い
お前本当にジャーファルさん?いくら子供の頃だからって、俺の知ってるジャーファルさんと全然違うんだけど。あれは猫かぶりだ。じゃあ、本性は口の悪いお前と同じって事か。いいや、あいつは俺以上に悪い。ただ表に出さないだけ。へぇ、でもそうは言ってもなかなか信じられないけどなー。ジャーファルさんいつも優しいぜ?騙されてるな、あんた。あいつ、好きなものには二倍猫を被る。つか、お前元々ジャーファルさんが嫌いなんだっけ。単純に悪口言ってる様にしか聞こえないぞ、それ嘘なんじゃねぇの?
呑気に言えば、ピタリと子供の動きが止まる。首を傾げると、さっと足元をすくわれた。てめぇ何しやがる。
思わず後ろに倒れたが、穏やかな波のおかげで背中に衝撃は殆んどなかった。ほっと息を漏らすと、ピリッと左頬に痛みが走った。視線を左側に向ければ薄く血のついた縄鏢が目に映る。
覆いかぶさってきた陰に気付いて子供を見上げた。
「何であいつを庇うんだよ」
憎しみと、羨望と、諦めが混ざった様な、そんな表情に息をするのを忘れた。
単なる子供の駄々だと思っていたのは間違いなのかもしれない。そんな単純な理由じゃこんな表情は出来ない。作れない。
地面に突き刺した鏢を引き抜くと、俺の喉元に触れるか触れないかの位置に振りおろした。俺の浅い呼吸に、小さくこぽりと気泡が浮かんだ。
あいつ、あいつ。俺を捨てたんだ。汚い記憶だからって消したい記憶だからって俺を捨てたんだ。冷たいこんな場所に俺一人捨てて、自分だけ日のあたる場所で生きてる。同じなのに、あいつも俺も同じなのに。俺がいたから今のあいつが出来上がっているのに、見たくないからって捨てたんだ。優しいなんて嘘、嘘。全部うそだ。
咆哮した子供の手は興奮からぶるぶると震えていた。幼い手に握られている鏢の先端が、皮膚に触れた。小さくぷくりと丸い血が出る。少し、痛い。でも、多分コイツ方がもっと痛い。

「寂しいんだな、お前」

小さく呟くと、子供の瞳が揺れた。
先端に少しだけ血の付いた鏢を、震えながら握る手ごと包み込んでそっと喉元から離した。
「お前さ、本当は寂しいんだよ。捨てられた事が、ショックで、悲しくて、悔しくて、憎くて、寂しいんだ」
きっとそれだけじゃないんだろうけど。でも、一番当てはまるのは、寂しい、だと思う。うん。
俺の言葉に、子供は酷く動揺したそぶりを見せた。
だって、本当にジャーファルさんが嫌いなら、憎いだけなら、仕返しの為だけなら、当てつけに出会った瞬間俺の事なんて殺してるよな。ほんとは、視線を向けてほしいだけなんじゃないのか?
極度の寂しさは憎しみに変わりやすい。子供なら尚更だ。

子供は俯いて、よくわからないと口にした。でも、あいつは嫌いだ。嫌い、嫌いだ。そうだな、俺も、お前を捨てたジャーファルさんは嫌かも。上半身を起き上がらせて、ゆっくりと子供を抱きしめた。腕の中でピクリと小さく震えたが、大人しく胸に顔を埋めた。こんな小さい子を捨てるなんて、駄目ですよジャーファルさん。この子は貴方自身でもあるのに。子供の体温は高いのが常識なのに、抱きしめている体温はこんなにも冷たい。
「あんたもあいつが嫌い?」
「お前を捨てちゃうところは嫌いだけど、全部が全部じゃねぇよ」
「なんでだよ」
「一つ悪いからって全部嫌いにはなれないって。それにジャーファルさんが好きって事は、お前の事も好きって意味なんだぞ?」
納得いかない様な顔をした子供に笑う。だって今のお前が居るからあの人がいるんだろ。今のお前が居なかったら俺はあの人を好きになったかどうか分からないからな。
だから、ちっとも汚くないよ。俺からしたらお前は必要だもん。
豆鉄砲を食らったような顔の、小さなジャーファルさんを見てケラケラ笑うとそっぽを向かれた。なんとなく年上の威厳が復活した気がした。お帰りなさい俺の威厳。
子供の解けた包帯を巻き直すと、軽く頭をぽんと叩いた。物珍しそうな顔で見上げて来た子供と目が合うと、わしゃわしゃと頭を撫でた。何するんだよ。せっかく撫でてやったのに嫌そうな顔しやがって、ガキらしく撫でられたら喜べって。ガキじゃない。ガキじゃん。うっさい。お前本当に口悪いな。
子供は手にしていた縄鏢と俺の顔を交互に見比べると、赤い紐をぶちりと千切って鏢を投げた。あ、魚に命中。可愛そう。
「あんたが変だから、俺まで変になった」
不機嫌な声色をあげて、俯く。本当、変になった。最初はあいつの絶望する姿が見たくて、殺してやろうとも思っていたのに。この金髪のせいで、変になった。俯いた顔をあげると、変ってなんだよと口をとがらせた金髪がむすりと頬を膨らませる。リスっぽい。ちょっと笑うと、お前笑った時の顔の方が可愛いぞと親指を立ててきたから鳩尾に蹴りを入れた。ガキ扱いすんな。
ぬあああ、と呻き声をあげる金髪を無理やり立ち上がらせると、今度は腕じゃなく手を握った。繋いだ手に、ぎゅっと少し力を込める。
鳩尾の痛みはまだ続いているようで、涙目の金髪が首を傾げる。
「俺、まだあんたの名前聞いてない」
いや、聞かなかっただけだけど、聞く必要はないと思っていたから。でも予定変更。あんたの名前が知りたい。
へらへら笑って名前を教えてくれたその人の名前を呟く。アリババ、うん。覚えた。忘れない。
後ろを振り返ると、放り投げた鏢の先が鈍く光った。
俺があいつに捨てられて、いろんな感情がごっちゃになって、心にぽっかり穴が開いたようだった。でも、もし、あいつが俺に謝ったって、もう心の穴は塞がらない。寂しいのと同じくらい、憎くて、嫌いだ。だからその点では手遅れだけど、別の方法で穴を塞いでもいいのかもしれない。
名前を呼ばれたことが嬉しいのかニコニコ笑うアリババをちらりと見やる。
あんたが居れば、この穴も塞がるのかな。
目的の意味は変わってしまったけど、やっぱりあんたは返せそうにないなと息を零した。


とぽん。

瞳を開けると青い世界だった。言うなれば海中。鏡の世界とは何とも奇妙なものか。
ヤムライハが見れば研究のし甲斐があると喜びそうだ。
アリババ君を連れ帰ったら早々に鏡を叩き割ってしまおうと考えつつ周りを見渡す。流石に海中だと人の匂いはかき消される。
さて、どうやって探し出してやろうかと腕を組んだところで、ひらひらとしたものが波に任されて流れてきた。
ひょいと手に取れば見憶えのある包帯で、これはしめたと波に抗うように進んだ。

早くあの子を返してもらおう。


「俺、帰りたいんだけどな」
「やだ」

蹲った子供はかぶりを振った。さっきからずっとこの調子だ。
がっくりと肩を落としてため息をつくと、気泡がぶくぶくと口から出た。
子供のジャーファルさんに引っ張られて行きついた先は、大きなクジラの骸だった。肋骨部分に腰かけて、とりとめのないことを二人で話していた。無愛想だけど、やっぱり中身は子供らしく、迷宮攻略の話や旅の話をすれば目の奥がキラキラと輝いていた。これで笑顔がつけば花丸なんだけどなぁ。
そうやって話をして、少しの間が出来たところでふとアラジン達の事を思い出した。俺の隣でそわそわと視線をうろつかせている子供に、いい加減帰らないといけないから帰してほしいと頼むとピシャリと固まった。
ギギギギ、からくり人形みたいにぎこちない動作で俺を見上げてきた子供は俺の上着の袖を掴んで首を振った。「帰したくない。嫌だ」それは、元のジャーファルさんを困らせる為ではなく、純粋に行ってほしくない、傍に居てほしい、そういった母親にすがるような声色だった。
正直困った。確かに仲良くなって、一緒に居るのは楽しいけど俺はやらないといけないことがたくさんある。一緒に居てあげたいけど出来ないのだ。こればっかりはどうしようもない。帰らないと、皆が困ってしまうし、心配もかけてしまう。それはいけない。
しかし何度お願いしても子供は首を振り、しまいには小さく蹲ってしまった。
「じゃあさ、一緒に出るのはどうだ?こんな海の底なんかより、外の世界に出た方がきっと楽しいって」
子供はうんともすんとも言わず、膝を抱えてさらに小さく蹲ってしまった。一緒に出るのも駄目なのか?
その方が、良いと思ったんだけどなぁ。もう一度声をかけようとすると、もう一つの声が遮った。
「アリババ君、彼は所詮実体のない記憶なんですから、鏡の外へ出れば消滅してしまうんですよ」
「!!」
言い終わるか終わらないかのところで、子供は俺の腕を引いて声の主から距離を取った。
目が回るような速さで移動するのは気持ちが悪い。予期していないと尚更だ。せり上がってきた胃液をどうにか抑えて、先ほど俺の居た場所に目を向けるとジャーファルさんが居た。
もちろん、この子供の元となった、正真正銘のジャーファルさん。
「なっなっなっなんで居るんですか!?」
「なんでって、迎えに来たんですよ。それにアリババ君がこんなところに居るのは私の落ち度ですからね」
迷惑をかけてすみませんでした。さぁ、一緒に帰りましょう。
反射的に差し出された手を取ろうと前に進もうとして、くん、と後ろに引かれた。俺の腕をぎゅうぎゅうに握りしめて、子供のジャーファルさんが獣のそれみたいに威嚇する。慌てて声をかけると、腕を掴む力を少し緩めた。しかし威嚇する姿勢は崩さない。ジャーファルさんはやれやれといった表情で子供を睨みつけた。
「君ね、いい加減にしなさい。アリババ君が困っているでしょう」
「煩い。どうやって入ってきた。さっさと出て行け」
「はいはい、出て行きますよ。アリババ君を連れて、ね」
「お前一人で出て行け」
「それは無理な話ですね。彼と一緒に居れないことぐらい、分かっているんでしょう?寂しいなんて思う前にちゃんと鏡は処分してあげますよ。ほら、はやく彼の腕を離しなさい」
「・・・嫌だ」
言葉にするなら一色触発。
アリババ君、帰りましょう。ジャーファルさんが余った方の手を取れば、唸り声をあげながら子供のジャーファルさんが俺の腕を益々力強く引く。東国の話で、子供を巡ってどちらが本物の母親かどうかと女に子供の両腕をひっぱらせた奴があったな。あれは結局どうなったんだっけ。子供は頭から真っ二つに裂かれたんだっけ。
やばい、腕がミシミシ鳴ってる。痛い。
「あだだだだだ、ちょっと二人とも一度離して下さい裂ける裂けるっ死ぬっ」
いやー、やめてーと情けない声を出すと、二人とも渋々腕を離した。ご丁寧に相手へどすの利いた睨みを忘れずに。
二人共もうちょっと歩み寄るとかしたら、あ、いえ何でもありません。
同じタイミングでこんな奴と歩み寄るなんて死んでも嫌だといった表情を向けてくるあたり、やっぱり同一人物なんだなと感心する。またも口論を始めた二人から身を縮めてこっそりと抜けだした。
二人の言い合いから耳を塞ぐように膝を抱えて俯いた。どうしよう。
俺は帰らないといけないし、元から此処に残るなんて選択肢は無いのだから、立場的に言えばジャーファルさん側だ。けれど子供のジャーファルさんに情が移っているのは確かで、一人には出来ないとも思う。
こんな場所で一人ぼっちなんて、寂し過ぎる。
どうしよう。言葉にしても、口から気泡が出るだけ。何の解決にもならない。
「もう結構です」
怒気を孕んだ言葉に顔をあげれば、ジャーファルさんが懐から縄鏢を取り出した。駄目だ、今あの子は武器になるものなんて何も持ってない。慌てて駆け出す。
子供を背に庇うとジャーファルさんが眉間にしわを寄せた。
アリババ君退いて下さい。この方が手っ取り早いんですから。駄目です。退きません。だからって、その子供の言う通りずっと一緒に居られない事は、君なら分かりますよね。それは分かります。でも、この子を傷つける理由にはならないでしょう。仮にもこの子はジャーファルさん自身じゃないんですか?そうですね、私自身ですね。だったら!だったら何ですか?
私だって何の理由もなく、記憶なんて捨てませんよ。
言えば、困惑した表情でアリババ君がたじろいた。
一旦、縄鏢を仕舞う。彼にしがみ付く幼い自分が何ともムカつく事。
「邪魔だったから、嫌悪してたから、捨てたんですよ」
憫然たる過去なんて、前に進むには邪魔にしかならないんですよ。切り捨てる事で前に進む重要さを、私の立場を考えれば君だって分かるでしょう。その記憶が居ると駄目なんですよ。とっくの昔に終わった余計な事で魘されて、仕事に支障をきたす。だから捨てたんです。
アリババ君は唇をかみしめて俯いた。元々賢い子だ、否定は出来ないのだろう。
でも、と言い淀む姿に首を振った。それにね、アリババ君。その子供は君が庇う価値なんてないんですよ。波の流れから微かに腐臭と鉄の臭いがしているのを分かりますか?この匂いを辿って行けば何があるか想像付きますか?
彼は首を横に振った。子供は黙れと叫んだ。だまれ、やめろ、言うな。必死に叫ぶ子供に冷めた視線を向けた。
「死体ですよ。この子供が殺した、大量の死体」
彼は目を見開いた。私は声を出さずに笑った。ね、庇う価値なんて無いでしょう?
幼い自分から奪うようにアリババ君を引き寄せた。ずるずると崩れ落ちる様に地面に膝をついた彼を抱きしめる。子供に視線を向けると、少しだけ泣いていた。化け物でも涙は出るのか。
顔を真っ青にした子供は、彼にしがみ付いていた震える手を離し、二三歩後ずさると背を向けて逃げ出した。

顔を伏せたままの彼に呼びかける。帰りましょう、アリババ君。金糸の髪をゆっくりと撫でた。帰りましょう。
しかし、アリババ君は顔を伏せたまま、イヤイヤと首を振って胸を押した。どうしたんですか?出口なら見当はついていますし、帰りましょう?
またも首を振る彼に視線を合わせようと覗き込む前に、彼の方から顔をあげた。
「まだ、帰れません。あの子はジャーファルさんだから、だから放ってなんておけません」
声は弱弱しいのに、意志の強い瞳に圧倒されそうになる。これではいけない。
「あの子供は私自身だから分かる事ですが、生半可な数を殺しちゃいないですよ。子供の皮を被った化け物みたいなもんです」
「何でそんな事言うんですか、自分自身の事でしょう!?そんな言い方しないで下さい!」
「君は知らないからアレを子供として見れるんですよ、それに所詮は記憶だ。君が心を揺らす必要なんて無いんですよ。さぁ帰りますよ」
無理やりにでも連れて帰ろうと手首を掴むと、乱暴に振り解かれた。怪訝な顔をした私にアリババ君が顔を真っ赤にして怒鳴った。
あの子が言ってた通り、ジャーファルさんの方が性格悪いですね!俺だってスラム育ちですから、子供が人を殺す場面を何度でも見た事があるんですよ。でも決まって皆好きで殺したんじゃないんです。殺しを肯定する気はありませんが、生きるためだったんです!どうしたって仕方のないことだってあるんです!ジャーファルさんだって、そうだったんでしょうが!馬鹿!
「馬鹿とは何ですか!」
「馬鹿ですよジャーファルさんのバーカ!あの子が記憶だからって何だっていうんですか!ジャーファルさんである事に変わりは無いでしょう!?」
「ああもう、アリババ君。君は甘過ぎるんですよ!あんな記憶程度でいちいち情を移していたらキリがないですよ、切り捨てることも覚えなさい!」
「俺だってそんな何でもかんでも情を移したりしません!ジャーファルさんだから、貴方だから切り捨てられないんです!」
「・・・っ!」

なんて事を言ってくれるんだこの子は。
何度も馬鹿と罵られたのに、怒りからではない感情で顔が熱い。
叫ぶだけ叫んで、言いたいことを言いきったアリババ君はフンと顔を背けた。
頑固な子だ。クーフィーヤーを取り、頭をがしがしと掻いた。
「放っておけないからって、どうするんですか。アレと此処に一緒に居るなんてのは無理ですよ」
「そんなのは分かってますよ。だからせめて、あの子の心が晴れれば」
それだけで、少なからず救われるものもあると思うんです。
だから、ジャーファルさんも協力してくださいね。にっこりと嫌みなくらいに良い笑顔を向けられて、案外君の方が性格が悪いんじゃないですかと呟いた。
どうせ出口はあの子供が向かった先だ。ついでと思えばそれほど苦ではないが、それでも重い腰をあげる。

こんなことなら最初から記憶なんて捨てなければよかった。


異臭を放つ死体の山の前で、一人膝を抱えた。
波に揺られて、上の方に積んである死体が浮いたり沈んだりしているのをじっと見つめた。
下敷きになっている女の腕を持ちあげれば、ぼろリと崩れ落ちた。ぶわりと拡散した肉塊に顔をしかめる。
こんな自分、アリババには知られたくなかった。知られたくなかったのに。
心の穴は塞がるどころか余計に広がった気がする。
あいつに対するいろんな感情の痛みより、こっちの方が断然痛い。
いっそ出会う前に処分されれば良かったのかもしてない。そしたら全部消えてなくなって、痛みなんて感じることもないのに。ため息は気泡になって上へと上昇する。
あいつが言葉を漏らした瞬間、アリババはどんな顔をしてたのか。嫌悪だろうか、落胆だろうか。どちらにせよ、自分には耐えられない。
表情を見るのが怖くて、知られてしまったことが辛くて、逃げ出してしまった。弱虫。
「嫌われたんだろうな」
「誰にだよ?」
なんとなく呟いた言葉に返事が返ってきた。背後からの声に驚いて振り返ると、先ほどまで頭の中を占めていたその人で、慌てて逃げ出そうとすると抱きつく様にして阻止された。
腕の中から逃げ出そうともがくと、余計にぎゅうぎゅうと抱きつく力を強められて、嫌なんだか嬉しいんだか分からないけど泣きそうになる。何で居るんだよ。この死体の山も見えてるんだろ、あんた。なのに何で、なんで。
「何であんたが此処に居るんだよ!」
あいつから聞いただろ、死体の山も見ただろ、軽蔑しただろ、失望しただろ、俺の事なんて嫌いになっただろ
喚くように言うと、馬鹿野郎と怒声を浴びせられた。
思わず暴れていた体をピタリと止める。
「そりゃ驚いたけどさ、なんでそれがお前を嫌いになる事に繋がるんだよ馬鹿」
「逆に何で嫌いにならないんだよあんたは!」
「俺様の懐の大きさなめんなよチビ」
こつんと頭を叩かれてまた抱きしめられた。いつのまにか、この人の温かいぬくもりに安心している自分に笑えた。
「ちょっと、くっつき過ぎです離れなさい」
温もりを味わっているのもつかの間。
第三者の手によりべりっとアリババから引き剥がされ、見上げればあいつが居た。
威嚇するように睨みつけると、あたふたとアリババが間に入った。ちょっと、ほら、二人共睨まない。あっコラ、ジャーファルさん舌打ちしないで下さいってば。
あーもう、どっちもねじ曲がってんだから。
呆れたようにアリババが呟くと、屈んで俺と視線を合わせた。
にこにこと笑顔ではあるが、少し下がった眉に気付いて俯いた。
「俺さ、お前の事好きだよ。大好きだけど、でもやっぱり帰らなくちゃいけないんだ。これは、分かってくれるか?」
本当は嫌だけど、こくりと頷いた。あいつの為じゃなくて、あんたの為なら我慢する。だったら大丈夫。だと思う。
アリババはいい子いい子と頭を撫でた。だから子供扱いするなって。
「けどやっぱりお前を一人にするのは心苦しくて、でさ、せめての罪滅ぼしに仲直りしたらどうかなって」
仲直り、誰と?
しかし一瞬で思い浮かんだ相手に、げぇっと難色を示した。
それは相手も同じだったらしく、俺と同じ表情をしていた。
二人して同じ顔して変なのーっと気楽に笑うアリババに縋る。無理だろ、だってあいつとなんて、無理だって。
アリババは大きく首を振って嫌がる俺を容赦なくずりずりと引きずり、あいつの前にぺいっと放り投げた。罪滅ぼしじゃない、もはや嫌がらせだ。

「・・・」
「・・・」

お互いに相手が大嫌いなんだ、仲直りとかそんな生易しい関係では無いのに急にそんな事を言われても困る。
黙るしかない。
そんな俺達に苛立ったのか、アリババがあいつの脇を急かす様につついた。あいつは露骨に嫌そうな顔をした。
「ジャーファルさん」
「・・・」
「ジャーファルさん協力するって約束しましたよね?」
「・・・するとは言ってないです」
「ジャーファルさんっ!」
「・・・」
「仲直りもできない人とは、俺絶交しますよ」
「ああもう言えばいいんでしょう言えば!」
したり顔で笑うアリババに、あいつはこめかみを押さえて舌打ちした。あいつがアリババを好きになる理由が分かっても、アリババがあいつを好きになる理由が本当に分らない。大人は分からないことだらけだ。
いいですか、一度しか言いませんからね。見下す様に言ってくるあたり、駄目なんじゃないのだろうか。
「君を捨てた事を謝ります、すみませんでした」
「!」
さらりと言われた言葉なのに、案外あっけなくぐちゃぐちゃに絡まっていた糸がほどけるような感覚がした。
意外と単純なもんなんだな。

「心にもないくせに、猫かぶり」
「黙れクソガキ」
「ジャーファルさんっ!」
言っておきますけどこれは不可抗力ですからね。
そっぽを向いて偉そうに言ってくるあいつを見ても、もう不思議と怒りは沸いて来なかった。本当、単純。


ジャーファルさんが死体の山に埋もれた鏡を取り出すため、死体を一体ずつ退かしていく。
一体退かすたびに、いくつかの死体がぼろぼろと崩れた。
やっぱり同じ人間だから、隠し場所も分かるもんなんですか?幼いジャーファルさんを抱えて尋ねてみる。
「それよりも君達離れなさい。アリババ君は私のですよ」
「大人げない」
「そこのクソガキ、口を縫いつけてやりますよ」
「ジャーファルさん虐待はよくないです」
虐待じゃありません、躾けです。しれっと答えるジャーファルさんに、確かに大人げないなと一票加勢した。
ジャーファルさんがせっせと死体を退けながら先ほどの質問に答える。
そうですね、同じ人間というのはありますが、基本的に他者を信用しない人間は大切なものは自分の身の内に置くんですよ。暗殺業をしているものなら余計にね。まぁ、こういった大きい物の場合は他者が寄りつかない所に隠すしかありませんっがっ!
ジャーファルさんがまとめて三体分を押し退けると、見覚えのある大きな鏡が出てきた。いや、額縁の装飾がわずかに違うな。
指先を鏡に触れると中心からいくつもの円が波打つ。今度こそ帰りますよ、アリババ君。わかりました。でも、ジャーファルさんは先に行っててくれませんか?いえいえ、ちゃんと帰りますってば、一応保険です。今回ばかりは信用がおけないので。
渋々頷いて鏡に吸い込まれるようにして消えたジャーファルさんを見送ると、幼いジャーファルさんを膝から降ろして立ち上がった。
俯く子供の頭を撫でる。やっぱりこの子を一人残していくのは辛い。何か方法はないのだろうか。記憶だから外には出れないなんて、あんまりな話だ。本当、記憶だからって。記憶、記憶、あ。
どうしよう、良い事思いついた。
俯く子供に声をかける。大丈夫、大丈夫だよ。お前を一人にはしないよ。
一方的に指切りをして頭をこれでもかというくらいにぐしゃぐしゃに撫でた。ぽかんと呆気にとられる子供にニカリと笑った。
うん。一人にはしない、約束だ。


遅れて鏡から抜け出したアリババ君に、ほっと安堵の息を漏らした。
「大丈夫ですか?具合が悪いとか、ありませんか?」
「はい、大丈夫ですよ。この通りぴんぴんしてますって」
「なら、良かった。今日はお騒がせしてすいませんでしたね」
「まぁ、元はと言えばジャーファルさんが悪いですもんね」
直球で言われると割と傷つく。いや、確かにそうですが。はい。すみません。
「それでですね、ジャーファルさん。一つお願いがあるんですけど、聞いてくれやしませんか?」
この状況の上、至極真面目な顔で言われれば頷く事しかできなかった。お願いとは何だろうか。
無茶な頼みごとをする子ではないが、それなりに覚悟しておこう。南海生物を仕留めて来いとか、そういうものが限界だろうか。鏡の中で随分時間を過ごしてしまったせいで、仕事も滞っている。自業自得と言えば自業自得だが。
いや、それよりも今回の事で私に幻滅して別れましょうなんて言われたらどうしましょう。
最悪の場合を考えてさっと血が引く。
正直アリババ君の事は好きだの愛してるだのをとっくに超越して依存している。もしも別れたならば仕事なんて放棄して引きこもりそうだ。ぐるぐるぐるぐる悪い方へと考えていると、ちょっと聞いていますかジャーファルさんと怒った顔のアリババ君が目と鼻の先に居た。怒った顔も可愛らしい。
「すいません聞いてませんでした」
もう、ちゃんと人の話聞いて下さいよとアリババ君は頬を膨らませた。リスみたいですね。言うと怒られた。
しっかり聞いといて下さいよ、何度も同じこと言うのって、結構疲れるんですから。
ごくりと唾を飲んで言葉を待つと、きっぱりとした声でアリババ君が言った。

「記憶の捨て方、俺に教えてくれませんか?」



二人が去り、すっかり静かになった海底は以前よりも冷たく感じた。
長く長く息を吐きだぜば、小さな気泡が列をなしてぶくぶくと口から出る。出口の鏡には、また死体を被せた。
俺にあんたは一人にしないと言っていたけど、結局一人じゃないか。確信めいた顔をして乱暴に約束を取り交わしたアリババを思い出して少しだけ恨めしく思った。
「きっと安心させるように嘘をついたんだ」
誰に聞いたかは忘れてしまったけれど、世の中には黒い嘘と白い嘘があるらしい。
黒い嘘は自身の保全と相手を陥れるための嘘。白い嘘は相手の為を思ってつく嘘。
だから、これは白い嘘なんだろう。
俺の事を思っての事なんだろうけど、正直言ってほしくはなかった。アリババから貰った言葉は、嘘と分かっていても、変な期待を持ってしまうから。
余計、寂しくなる。

いつものように瞼を閉じて、長い眠りに着こうとした。鏡が朽ち果てるまでの長い眠りだ。
しかし、僅かに聞こえた子供の声に、閉じようとしていた目をぱちりと開ける。キョロキョロ周りを見渡しても魚しか視界には映らない。けれど、耳を澄ませば確かに声が聞こえる。あっちの方か。
さくさくと歩みを進めれば、声はだんだんと明瞭とした音をもって聞こえてくる。
声の主はどうやら泣いているらしい。
さくさく、さくり。
足を止めた場所は、捨てられた俺が、初めて目を覚ました場所だった。
目の前でしゃっくりをあげながらぐずぐず泣く子供に、目を見張る。金糸の髪も、琥珀の瞳も見覚えがある。違う点を挙げるとすれば、俺よりも小さな子供の姿である事と、さして長くはないが、綺麗に結われている髪くらいだ。
約束は本当だったんだ。嘘なんかじゃなかった。嘘なんてついてなかった。
泣いてる子供の手を取って、真っ赤になった目元を覗き込む。
子供はきょとんとした顔で、舌足らずに「だれ?」と呟いた。
名前を言えば、首を傾げて俺の名を呟いた。ジャーファルさん?それとも年上だからジャーファルお兄さん?どっちでもいい。じゃあ、ジャーファルお兄さん。それでいい。 へへへ、と気の抜けるような声で笑う子供の頭を撫でた。お兄さん、か。悪くないな。
「あのね、俺、王宮に住んでからずっと独りぼっちだったんだ。人は居るけど、俺一人なの。けど、此処は変なところだけど、お兄さんが居るね」
「ああ、居るな」
「ジャーファルお兄さんも一人なの?他に人は居ないの?」
「俺もお前と同じ。他に人は居ない」
だから、俺と一緒に来ないか。本当?そしたら俺もお兄さんも一人ぼっちじゃなくなるね。そうだな。
「あ、そういえば俺、まだ名前言ってない」
「いいよ言わなくて、別に分かるから。アリババだろ?」
「何で知ってるの?」
「秘密」
「えー、ずるいー、教えろ―」
「そのうちな」
頬をまんまるに膨らませた子供の手を引いて歩きだす。
何が面白いのか分からないけれど、ころころ楽しそうに笑う幼いアリババを見て、真似る様に笑った。日頃めったに笑わないため頬が引き攣ってしまうけど、それでも笑ってみた。ジャーファルお兄さんって表情固いんだな。煩い。
二人分の笑い声が海の底で響いた。繋いだ手先が温かい。

これから先は、もう一人じゃない。こいつが居る。
それだけで、酷く幸せな気持ちになった。

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