ジャファアリ/龍アリ

赤い糸

それに気がついたのは、王宮にあがって少しばかりした頃だった。

朝起きて、左手の小指に違和感を感じたのが始まりだった。
赤い、細い糸がぐるぐると小指に巻きついていた。
先の見えない糸に驚きつつも、これでは着替えることができないと糸を解こうとしたが、強く結んであるそれは解けることはなかった。俺を起こしに来た下女に糸を解いてくれないかと頼んだら、怪訝そうな顔をして「糸なんて、何処にもありませんわ王子様」と言われた。
言い淀む俺をよそに、てきぱきと着替えの準備をする下女。
糸が邪魔になって着替えることが出来ないだろうと思っていた事とは裏腹に、その糸はするりと布地を透けた。
その後も指先から長く垂れた糸を気にする者は居らず、また触れる者も居なかった。
そこで俺は、その赤い糸が俺だけにしか触れず、視界に映すこともないのだという事に気付いた。
最初は鬱陶しく思っていた俺だったが、ひたすらに与えられる厳しい教育の中で糸の事なんてすぐに頭の中から消えた。
別に視界にちらちらと入るだけで、なにか害があるわけでもない。それよりも今は必死に生きるための努力を、敵を減らすための笑顔を顔に張り付ける方が重要だった。

王宮に入って一番最初に教えられたことは、何があっても笑顔でいること。
どんなに辛かろうが、苦しかろうが、悲しかろうが、胸の内にだけ抑えて顔には出すな。
不安な表情や涙は弱さの象徴。あなたはもう他人に付け入る隙を与えてはならぬ立場になったのです。ただの子供ではいられないのです。
だからこそ、何があっても笑顔でいなさい。嘘でも笑えるようになりなさい。
実際にその教えは当たっていた。
面と向かって罵倒を浴びせられても、下手に泣くよりか笑顔でいる方が余裕があるように見え、相手は怯む。
悪意を持っていない相手に笑顔を向ければ大抵の場合は許容される。なんの後ろ盾もない俺にとってはそれが一番の武器となった。
そのうち辛くても悲しくても、瞳は潤むことなく勝手に笑顔が作れるようになった。その代わり、泣けなくなった。
母の死を思い起こしても涙が出なかった。体が涙を流すことは許さないとでも言っているかのようだった。
だからだろうか、寝床に入って見る夢は、現実の世界では泣けない代わり、ただひたすらに、目から涙を零す夢を見た。
真っ白な世界で一人声をあげて泣く。溜まりに溜まった涙のせいで、白い地面には薄い水が張った。
俺が嗚咽を繰り返すたびに丸い波紋が浮かんだ。
小指の先から垂れた赤い糸はゆらゆらと水面に揺れていた。


最近同じ夢を繰り返し見る様になった。
それはちょうど、左手の小指に巻きついている赤い糸に気がついてからだった。
糸は俺にだけしか見えず、姉上にも兄上にも見えることはなかった。
夢の内容は、ただただ真っ白な世界に一人居るだけの面白みのかけらもない夢だった。
そんな夢を見続けて一週間後。その日の夢は白いだけだった世界にうっすらと水面が出来ていた。
小指の先から垂れる赤い糸が地平線に向かってゆらゆら揺れていた。
今まで特に気にも留めなかった事だが、この糸の先には何があるのだろうか。遠い彼方を見つめて俺は歩きだした。
歩くたびにパシャパシャと水がはね、波紋が浮かんだ。

真っ白な世界をひたすら歩き続けて三日目。
赤い糸の先を辿り続けることにも飽きてきた頃に、小さな、本当に小さな泣き声が聞こえた。
耳をうんと良く澄まさなければ聞き逃してしまうほどの小さな泣き声。どうやら糸の先にその声の主がいるようだった。
好奇心に従って、水を蹴って走り出す。
どれくらい走り続けただろうか、鍛錬の練習の時よりもたくさん走った気がする。だけど苦には思わなかった。だってこの先に誰かが泣いてるんだ、もしかしたらこの水面はその涙で出来たのかもしれない。俺は泣き虫だけど、こんなになるまで泣いたことはない。きっと俺より泣き虫な誰かが泣いているんだ。だったら傍に行こう、泣いている時に誰かが傍にいてくれると安心するものだから。
俺には二人の兄上も姉上も母上もいるけど、泣いている誰かは一人ぼっちかもしれない。誰も聞いているわけじゃないのに「待っていてください」と舌足らずに呟いた。

逆方向から来る波紋と、俺が足元から波立たせている波紋がぶつかりあって消えた。
波紋の先にはキラキラと金色の物体が輝いていた。あと一息といった距離だろう。
あの金色はなんだろう。息を切らし、水面を大きく蹴りながら俺は考えた。あんなにキラキラしているんだから、星が落ちて来たのかもしれない。空から落ちてきてしまって、きっと帰れずに泣いているのかもしれない。
しかし、俺の予想と違ってキラキラと光り輝くそれは星ではなく、俺と同じくらいの子供だった。子供の指先には俺と同じように赤い糸が結んであり、糸の先は俺の小指に繋がっていた。
俺に気付いた子供は泣いていた顔をあげてじっとこっちを見たまま固まっていた。瞳からはぽとりぽとりと滴が落ちて円を描いた。
金色の髪と金色の瞳。俺の国には無い色にぱちりぱちりと目を瞬かせる。満月のときのお月さまみたいに綺麗だと思った。
ひとまず隣に腰を落ちつけると、また子供が声をあげて泣きだした。兄上が俺にしてくれたように見様見真似でぽんぽんと優しく背中を叩くとますます声をあげて泣いた。
本当は泣きやんでほしくて傍に来たのだけれど、子供の瞳から零れおちる滴が暖かくて心地良いものだから夢が覚めるまでずっとそうしていた。
明日の夢で会ったら、今度は名前を聞こうと思った。


隣でぼたぼたと涙をこぼしながらしゃべる子供の名前はアリババ殿と言うらしい。
楽しそうに話しているのに瞳から零れる涙は止まることを知らないかのように流れて行くものだから、俺はせわしなく彼の目元を手でぬぐった。
あんまりしつこく拭っているのがいけないのか、俺の手から逃れる様にいやいやとアリババ殿は首を振った。
「逃げちゃだめですよ、だってまだ涙が出てます」
「いいの!ずっと出てくるから仕方ないの!」
「でもこんなに泣いたら目が腫れてしまいますよ?」
「いいんだってば、だってこれは夢なんだもん」
それに夢の中でしか泣けないからこれでいいんだもん。

アリババ殿の言葉に首を傾げた。
懲りずに目元を拭いながら続きを促すと、渋々話してくれた。
こんなに泣いているのに、起きた時は一切泣かないんですか?一滴も?うん、一滴も。それじゃあ俺と正反対ですね。白龍は泣き虫なのか?アリババ殿ほどじゃないです。だーかーらーこれは勝手に出てくるの!起きてる時に泣けない代わりにここで泣くの!
ぼたぼた泣きながら怒る彼を目の前にしてぐるぐると考える。本当に正反対だ。
今日の昼間だって草影から飛び出してきた兎に驚いて泣いてしまった。だけどその頃アリババ殿は大人の人から悪口を言われていたのにニコニコ笑っていたのだ。
そういえば、俺はこの夢の中で泣いたことが無い。真っ白な世界に一人だけだった時も、いつもなら怖い怖いと泣きだしそうなものなのに、全くと言っていい程恐怖心を感じなかった。
「きっと、アリババ殿を慰めれるように俺はここだと泣かないんですね」
「なんだそれ?」
キョトンとしたアリババ殿の手を取ると赤い糸の付いた小指同士を絡ませてにこりと笑った。
疑問符を浮かべたままのアリババ殿もぎこちなくにこりと笑った。

この練白龍の名に掛けて、貴方の涙を拭い続けると誓いましょう!
胸を張って言えば、何言ってんだお前と引き気味でアリババ殿が二三歩離れた。
俺から離れちゃだめじゃないですか、俺は今さっき貴方の涙を拭うと誓ったのに!
変な奴、と言われたことに憤慨しつつも、またアリババ殿の目元を拭った。何度拭っても止まることは無いけれど、これが俺の役目なんだと思うと無駄な行為だとは思わなかった。


パシャリと水が跳ねた。
目の前をすいすい泳ぐ魚にアリババ殿は目を輝かせて興味津々といった様子で眺めていた。
「白龍、白龍、見てみろよ。魚が泳いでいるぜ」
「綺麗ですね」
「赤色と斑と、金色も居るや」
こいつら一体どういう名前の魚なのかなぁ、俺の国は漁業も盛んなんだけどこの魚は見たことねーや。これは多分鯉ですよ。鯉?俺の国では池の中で飼ったりするんですよ。へぇ、じゃあこっちのひらひらした小さいのは?それは金魚です。ふぅん、こいつも池の中で飼うの?いいえ、これはガラスの鉢の中で飼うんですよ。
「気持ちよさそうに泳いで、楽しそうだなぁ」
「アリババ殿は泳ぎたいんですか?」
「うん、泳ぐの好きだからなぁ。暑い日とかに泳ぐと気持ちいいんだもん。でも王宮に閉じ込められてから泳いだことねーや」
パチャパチャと水面を叩きながら、つまらなそうにしているアリババ殿の首筋にぽたぽたと手に掬った水をかけた。
冷たいからやめろよと頬を膨らませる彼の言葉を無視してもう一度水を掬ってかける。
「そのうち泳げるかもしれませんよ」
「なんで」
「アリババ殿が泣くたびに毎日水かさが増えているんですから、きっといつか泳げるくらいの量になりますよ」
「でもそしたら溺れちゃうじゃんか、ずっと泳ぐのは無理だよ、魚じゃないんだもん」
手にすくった水を今度はそのままぱしゃりとアリババ殿の頭にかけた。犬みたいにぷるぷると首を左右に振る彼をじっと見つめた。濡れた分、金糸の髪が濃くなった気がした。
「夢だから、魚にだってなれるかもしれません」
「そうかなぁ」
「そうですよ」
「じゃあ、魚になる時は白龍も一緒な」
「もちろんです」
「そしたら、どっちが早く泳げるか競争しようぜ」
アリババ殿の言葉に反応したかのようにぱしゃりと鯉が尾を叩いた。うん、お前たちも一緒に競争しよう。
にこにこ嬉しそうに笑うアリババ殿の目元を拭う。
「笑ってるのに、涙が止まらないですね」
「代わりだからな」
ごしごし、ちょっと乱暴にアリババ殿の涙を拭う。
一時的に涙の無い顔になったものの、次の瞬間にはまたぽろりぽろりと涙がこぼれて来た。
止まらないって何度も言ってるのに。口元をとがらせたアリババ殿をよしよしと撫でた。
「俺の方が年上なのに」
「でも今は泣いてるから俺の方が上ですね」
「なんだその理論は」
「泣いている子供を慰めるのは年上の務めだと兄上が言ってました」
「お前も子供じゃんか」
またよしよしと頭を撫でる。アリババ殿は文句を言っては来るけど俺の手をどけようとはしなかった。
それどころか、少しくすぐったそうに目を細めていた。そのことを指摘すると、だって誰かに撫でてもらうなんて久々なんだもんと眉をハの字にさせた。
「起きている時も白龍と一緒にいられたらいいのになぁ」
「俺も、そう思います」
「夢から覚めたくないなぁ、ずっと夢の中に居られればいいのに」
すん、と鼻を鳴らして俯いたアリババ殿の指先を握った。
もしも俺がもっと大きくて、強くて、泣き虫じゃ無かったら、大きな海を渡ってアリババ殿を助けに行けたかもしれないのに。

「俺が大きくなったら、アリババ殿を迎えに行きますね」

きっとアリババ殿なら、兄上も姉上も母上だって歓迎してくれるだろう。
俯いていた顔を少しあげて、かすれた声で「絶対だぞ」とアリババ殿が呟いた。大きく頷くと、花が咲く様にふわりと笑った。

包み込む様な笑顔にチカチカと目眩がする。この人はやっぱりお星様なのかもしれないと思った。


帝王学の授業は俺の中では一番嫌いなものだった。
商学ならまだ少しはスラムの生活の中でも馴染みがあったけど、帝王学となると馴染みのなの字も無い。
おまけに教師は他の王宮内の人たちよりも一層、スラム出身の俺が嫌いらしく、難癖をつけては罵倒する。もちろん笑顔で軽く流すけれど、そのたびに言い返すこともできないのかと腹を立てる。
現に今だってそうだ。こんなことも覚えられないのかと男は怒声と共に机を強く叩きつけた。
衝撃でインクが横に倒れる。せっかく書いた作文が真っ黒に染まった。あーあ、また書き直さないといけねぇや。
話を聞いているのかともう一度男が強く机を叩いた。今度は羽ペンが床に落ちた。絨毯にじわりとペン先についたインクが染みた。下女のお姉さんごめんなさい、余計なお仕事増やしちゃった。
男が本棚から数冊書簡を取り出して乱暴に机に置くと、明日までに写本しておけと無茶を言った。
他の授業もあるんだけどな、せめて3日間あればどうにかなったかもしれないけれど、明日は無理だ。それでも笑って分かりましたと頷く。
これだから、スラム育ちの娼婦のガキの世話は嫌なんだと吐き捨てて荒々しく部屋のドアを閉めて行った。
ぎゅっと強く拳を握る。別にお前なんかに世話になった覚えはねぇよ、本の通りにしか教鞭をふるえない癖に。
階段を下りる足跡が完全に聞こえなくなると、ずるずると体から力が抜けてぺたんと床に座り込んだ。
絨毯に染みた黒いインクを触ると指先が汚れた。まだ乾いてないや、今のうちに下女に洗ってもらえば汚れがよく落ちるかもしれない。
立ち上がろうとして、またぺたりと座り込む。膝に力が入らねぇや、思った以上にあの教師の吐いた言葉が重荷になったらしい。
娼婦だからなんだっていうんだよ、母さんを捨てたのは王宮じゃないか。俺やカシム、マリアムを育てるために母さんはたくさん頑張って倒れたんだよ、お前なんかよりずっとずっと母さんの方が偉かった。
下唇を噛んで膝を抱える。家に帰りたいな、そう小さく呟くと絨毯に染みたインクみたいに俺の胸の中にじわりと広がった。口にするのは失敗だったや、捉えた音は冷たくて重い固まりになって益々立ち上がるのを億劫にさせた。
左手の小指を睨みつける。赤い糸が部屋の窓から流れてくる風にそよそよと揺れる。
「早く迎えに来いよ、馬鹿」
そうじゃなきゃ、夢の中に閉じ込めてくれよ。
もう二度と目覚めなくてもいいから、魚になって涙の海を自由に泳ぎ回る方が良い。そっちが良い。
目元は熱かったのに、瞳は潤むことは無かった。カラカラ、カラリと乾いてた。


その日の夢はいつもと違った。昨日は足首程度の高さだった水が、膝近くまで増えていた。
大きな泣き声にキョロキョロとアリババ殿の姿を探す。
後ろを振り返ると探していた人が声をあげて泣いていた。瞳からはアリババ殿の大きな瞳と同じぐらい大きな滴がぼたぼたと零れていた。ぼちゃんぼちゃんと水面に落ちる。
慌てて駆け付けようにも濡れた服が肌に絡みついて進みづらい。それでも頑張って足を踏み出すと、一気に増えた水量がじゃばじゃばと波音を立てる。
上手く前に進めなくてばしゃりと大きな音を立ててこけた。泣きそうになる頭を左右に振って立ち上がり、アリババ殿の元へ駆ける。
耳がつんざくような泣き声をあげるアリババ殿を前に、最初に会った日のようにぽんぽんと優しく背を撫でる。
ぼたぼたと零れる涙を必死に拭うけれど、あっという間に俺の手までびちゃびちゃに濡れてしまった。
アリババ殿、アリババ殿、だいじょうぶですか?何か悲しいことがあったんですか?
声をかけるとふるふると頭を横に振った。金魚が心配そうにアリババ殿の指先をつつく。
辛いことがあったんですか?苦しいことがあったんですか?
今度は小さくこくりと頷いた。
眉間にしわが寄る。アリババ殿の手をぎゅっと握った。
真っ赤になった瞳をじっと見つめる。ぼたりぼたりと零れる涙は弱まる気配が無い。どうしたらいいんだろう、どうしたらこの人は笑ってくれるんだろう。でもその方法が見つけ出せるほど、俺はこの人の苦しみが分からない。
「俺はどうしたらいいですか」
分からなくて、言葉に出す。本当に俺はどうすればいいか分からないんです。きっと泣いているあなたに聞くことじゃないんだろうけど、でも分からなくて、分かりたいんです。
アリババ殿はぱちりぱちりと瞬きを繰り返すと、くしゃりと顔を歪ませた。
「――て、」
「はい?」
「はやく、迎えに来て」
もう、俺やだよ。もうやだ、やだよ白龍。
そう言ってまた声をあげて泣き出した。苦しいのはアリババ殿のはずなのに、なぜか俺まで苦しくなって上手く呼吸が出来なかった。
アリババ殿の目元を拭うと、ぎゅっと抱きしめる。兄上達みたいに全身は包み込めないけど、それでも精一杯腕を伸ばして抱きしめる。
貴方のために強くなります。強くなって、すぐに迎えに行きます。
この夢の中の出会いが貴方の涙を拭うためなら、きっとこの赤い糸は貴方を迎えに行くための目印なんだ。

遠くでぱしゃりと魚が跳ねる音がした。


「明日は大事なお客様が来るから、俺は本殿には近付くなだってさ」
やんなるよなー、と花を千切っては水面に浮かせながらアリババ殿がぼやいた。
細かく千切られた花弁を二三度つついて鯉が食べた。
ぷかぷかと浮かぶ花はどれも同じ種類で、庭先で見たことのある花だった。確か牡丹という名前だった気がする。
そのままの姿で浮いているものは大き過ぎて鯉はお気に召さないらしい。
アリババ殿がまた細かく千切った花弁をはらりと水面にばら撒いた。待ってましたとばかりに鯉が集まる。
尾を水面にぱしゃりと打ちつけるたびに丸い波紋があちこちで広がった。
アリババ殿の頬は少し赤くなっていた。ぺたりと触ると目を細める。冷たくて気持ちが良いらしい。
「どうしたんですか。これ」
「帝王学の教師に叩かれた」
ぎょっとする。市井の出とはいえ、教師が王子に手をあげていいのだろうか。
「写本が完成しなかった罰だってさ、自分だって一日で出来ない癖によく言えるよな―」
「難癖じゃないですかそれ」
「そうだな」
アリババ殿の瞳から零れる涙を掬うと、腫れた頬にぺたぺたと塗りつける。
白龍、出たばっかりの涙は熱いから、それじゃあ多分意味が無いと思うぞ。そう言われて今度は足元の水を掬ってぺたぺたと塗りつける。早く治るといいですね。うん、早く治って欲しい。
「花、枯れちゃわないかな」
「なんでですか?」
「下女のお姉さんが、花に水をやり過ぎると枯れちゃうんだよって教えてくれたんだ」
確かに、ここには水しかない。手近にある浮いた花をアリババ殿の耳にかけた。この花だけでも枯れないといいな。
そう思って刺したのに、アリババ殿はすぐにぷるぷると首を振って、また花はぽちゃりと水面に落ちた。
「女の子みたいで嫌だよ」
「そんなこと言って、この花が枯れたらアリババ殿のせいですよ」
「じゃあ枯れる前に魚に食べてもらえばいいじゃん」
俺って天才だーっとはしゃぎながらアリババ殿はまた浮いた花を千切りだした。嬉しそうに鯉が寄って来る。
俺も浮いていた花を手にとって千切っては水面に撒く。せっかく似合っていたのになぁ。
一通り浮いていた花を千切り終えると、花の香りがついたままの手でアリババ殿の目元を拭う。
もしも、夢の中でアリババ殿が泣かなくなったらどうなるんだろう。
俺が一緒に居る意味は、アリババ殿の涙を拭うためだから、必要がなくなったらどうなっちゃうんだろう。
考えると、少し落ち込んだ。
せめて、この指先の糸は切れないといいな。アリババ殿を迎えに行くには、この糸が必要だから。

切れないと、いいな。


本殿には近付いていない。
離宮の庭で隠れるように打たれた頬を氷で冷やしていただけ。
だから、悪いのは俺じゃ無くて、此処までわざわざ足を運んできたこの銀髪のお兄さんだ。
本殿には近付くなという言葉は、要は妾の子である自分を合わせるには失礼にあたると判断された客人だから、姿を見せてはいけないのだ。
客人は何処の国の誰が来ているのかは分からないけれど、王宮の中でこの人は初めて見るし、なんといってもこんな銀髪はバルバッド自体で見かけたことが無い。きっと客人に関係ある人だろう。
顔を青くして、離宮の方に踵を返そうと駆けた。が、それよりも早くお兄さんは俺の襟をひょいとつまみあげた。
突然の浮遊感に吃驚して足をバタつかせる。
「はっ離して下さい!」
「逃げないなら離す」
逃げられないのは困るが、客人によってつまみ上げられている今の状態を使用人たちに見られるよりは、地に足がついている方がましだと判断してこくこくと頷く。 合図もなしにぱっと手を離されたため、どすんと尻もちをついた。痛い。
お尻をさすりながらお兄さんを見上げると、無言でじっと見つめられてたじろぐ。
とりあえず、手なれた処世術でにこりと笑うと。眉間のしわを深くさせた。何か不味いことをしてしまっただろうか、嫌、もう姿を見られている時点で十分不味いけれど。
一言もしゃべらないお兄さんに段々不安になって来る。それでも笑みは絶やさない。不安を表情に出すな、出すな。
「なんで笑っているんだ?」
ようやくお兄さんの口から言われた言葉に疑問符を浮かべる。なんで笑っているかなんて、そんなの聞いてどうする気なんだろう。
しかし、問われたのだから答えを返さなくちゃいけない。俺が笑う理由、笑う理由は。
俯いて考え込んでいると腫れた頬に冷やりとした手が触れた。ビクリと小さく肩が跳ねる。
「腫れてる」
そういえば、このお兄さんのせいで氷袋を落としてしまった。冷やされない頬はじくりじくりと熱を帯びていた。
添わされた手は冷たくて、昨日の夢を思い出させた。だけど、今目の前にいる人物は白龍じゃ無くて、名前も知らない銀髪のお兄さん。
「誰に叩かれた?」
まだ最初の質問に答えられていないのに、次の問いが降って来る。この問題は簡単だ。だけどこの人に言う様な事だろうか。ちらりと見上げると、冷めきった瞳と目が合って思わず後ずさった。
「誰に、叩かれた?」
もう一度ゆっくりと問われる。
真っ直ぐにこっちを見る瞳が怖くて、顔を背けながら教師に叩かれたことを正直に吐いた。
お兄さんは何処の国でも碌な大人は居ないなと眉をひそめて、俺の頬をさすった。
「殺してやろうか?」
「へ?」
「その教師。どうせ今はシンが居なくて暇だし、その様子じゃ他の奴には言ってないんだろ?そういうのは黙っていると付け上がって悪化するんだよ」
何を言っているんだこのお兄さんは。
返事が出来ずに呆けている俺を前にごそごそと裾から凶器を取り出した。あ、この人本気だ。
「っや、やめてくださいやめてください!俺は平気ですからそんな安易に人を殺しちゃだめです!」
慌てて止めに入るとお兄さんは不服そうな顔をした。
お前は腹が立たないのかと言いながらも凶器は仕舞ってくれた。
そりゃあ腹は立ちますけどと言いそうになった瞬間、後ろからかけられた声に咄嗟に口を噤んだ。
声の主は俺の腫れた頬の原因のその人だった。
客人と一緒に居るところを怒られるかと思ったけれど、いつの間にかお兄さんは居らず、庭には俺一人だけだった。
男は地面に落ちた氷袋と腫れた俺の頬を見比べて、フンと鼻を鳴らしてカツカツと近付いてきた。
「本殿の方には近付いてはいないようだな」
「はい」
「何と言っても今日の客人はあの有名なシンドバッド様だからな、お前の様な写本も碌に出来ない薄汚れた餓鬼が不敬を働いては国の威厳に関わることだ」
「そうですね」
「・・・言い返す威勢もないとは情けないな、まぁいい。絶対に本殿の方には近付くなよ、お前の姿を見たらきっと気を悪くされるからな」
「はい、分かりました」
にこにこにこにこ、いつも通りそうやって笑ってかわす。
俺を一瞥すると男は満足そうに元来た道を戻って行った。わざわざ嫌みを言うためだけに来たのかよ、お疲れ様なこって。
男が見えなくなると、地面に落ちた氷袋を拾い上げて付いた土をはたき落す。
数回叩いただけで、ほとんど汚れは落ちたけれど、それでも無言で叩き続けていると不意に足元に影が落ちた。
顔をあげると、お兄さんだった。
「さっきはどこにいたんですか?いきなり居なくなるから俺びっくりしました」
「木の上」
お兄さんはほら、と庭に植えてある木の中でも一番高くて大きい木を指差した。
普通の人なら馬鹿にするなと腹を立てるところだけど、このお兄さんならありえるなと思って、凄いなぁと口にする。
お兄さんは少し照れくさそうにしながら、大したことじゃないと顔を背けて呟いた。十分大したことだと思うんだけどなぁ。
「それよりもお前、なんでさっき笑ってたんだ。あんなに馬鹿にされて、怒りもしないし泣きもしないのにへらへら笑って。なんでだ?」
嫌な質問再来。それからさっきの所見られてたのか、やだな。
「なんでそんなこと聞くんですか」
「他の子供は、悲しかったら泣くし、辛かったら喚くし、不平があれば怒るのに、お前は作った笑顔でずっとにこにこ笑ってて気持ち悪い」
気持ち悪い、なんて言われてムカつかない人は居ない。俺はムッとして言い返す。
「不安な表情や涙は付け入る隙になるから笑うんです、そう、教えられましたから」
「嫌な教えだな」
「しょうがないじゃないですか、だってそうでもしないともっと辛くなるんだもん」
短くとも言われた言葉は俺には不快で、うっかり崩れた言葉遣いになってしまったけれど、お兄さんは気にしない様子で子供のうちは感情を隠すことなんてやめておけよと、俺の手に持っていた氷袋を逆さにして、中に入っていたすっかり氷が溶けた水を庭に撒いた。腫れた頬がじくりと痛む。
「せめて人が居ないところでは泣くとかしたらどうだ?ここなんてうってつけじゃんか」
「お兄さんが居るじゃないですか」
「俺はどうせ明日には国に帰るからいいんだよ、別にお前が泣いてるからって怒らないし付け入ることもないし」
「やっぱりいいです」
「なんでだよ」

だって泣けないんですもん。悲しくても、辛くても、涙が出ないからいいんです。夢の中で泣くからいいんです。

「なんだそれ」
「泣けないのに泣けって言われても無理ですから」
「無理じゃないだろ」
「無理ですよ」
だって母さんの事を思い出しても涙が出ないのに、乾ききって出ないのに、泣けるわけがないじゃないか。なんでそうやってお兄さんは俺にこだわるの、別にもういいから、夢の中で泣けるから、あいつも居てくれるから、だからもういいの。
俯いた俺をながめて、お兄さんは手元に持っている凶器をくるくる回す。赤い紐が小指の糸と重なる。
やだな、本当にやだな、早く迎えに来てほしいな。
「泣きそうな顔してるのに、惜しい」
「だから泣けないって言ってるじゃないです、か!?」

ごちん。

なんて人だ、お兄さんは手元で回していた凶器を俺の頭にぶつけて来た。
幸い血は出ていないものの、ものすごく、滅茶苦茶、痛い。人生の中で味わって来た痛みの中で一番痛い。
軽そうに見えるそれは、実際はかなり重たい代物だった。頭がぐわんぐわんする。あの男に頬を叩かれた時より痛い。
「いってぇっー!」
痛みに耐えきれず思いっきり叫んだ。
叫んでも痛みは治まらないけれど、それでも叫ばずにはいられない痛さだ。本当、なんてことをしてくれたんだこのお兄さんは。
痛みの張本人は楽しそうにクツクツと笑っていた。うう、酷い。
「泣けないなんて言って、泣いてるじゃんか、お前」
「うぇ?」
別に泣いてなんて、俺の言葉が言いきる前にお兄さんが目元を拭った。
お兄さんの指先は日に照らされてキラキラ輝いていて、あ、これは。
「ほら、お前の涙」
確かに、それは俺が泣いた証だった。けど、けどそれってなんかずるい。
「でもっそれは!お兄さんが頭に重いのぶつけるから!痛くて!」
「一緒だろ、悲しくて泣くのも、痛くて泣くのも、泣いてることには変わりないだろ」
ちゃんと泣けるじゃんか。
そう言って楽しそうにお兄さんが笑うもんだから、俺は体の力がふにゃりと抜けた。

「おれ、泣けるんだ」
「ああ、泣いてる泣いてる。面白いツラして泣いてる」

やだ、やだな。
泣けるんだ、すっかり枯れたと思ってたけど、そんなこと無かったんだ。
自覚すると、ぼたぼたと目から涙が溢れて来た。頬を伝うリアルな感触が久々で、懐かしかった。泣くのが懐かしいなんて変なの。
急にぼたぼた泣きだした俺に、泣かせた張本人のお兄さんはぎょっとして慌てながら背中をさする。自分が泣かせた癖に。
大丈夫か?おい、いきなり泣きだすから、お前、なぁ。
背中をさするお兄さんの手は不慣れでぎこちなくて、それでもどこか安心した。俺は小さく大丈夫じゃないよと呟いて、お兄さんの胸に飛び込んで声をあげて思いっきり泣いた。
お兄さんは益々慌てて、手なんてこんがらがっちゃってたけど構わず泣いた。
久々に、本当に久々に泣いたものだから泣いた時の呼吸の仕方が良く分からなくなってた。呼吸が続かなくなるとお兄さんがトントンと背中を叩いた。
散々泣いて、嗚咽だけになると途切れ途切れだけど感謝の言葉をお兄さんに伝えた。今度は本当の笑顔で。
なぜかお兄さんは顔を赤くしていたけど、言葉が伝わったならもういいやと思った。

心の中はぽかぽかと暖かくて、多分これからはもっと辛いことや悲しいことがあっても耐えられるような気がした。
だけどその反面、罪悪感も滲んでいた。
あの夢は泣けない俺が唯一作った泣ける場所だから、きっともうあの場所の夢は見ることが無くなるのだと心のどこかで確信していた。
いきなり見続けていた夢を突然見なくなったら彼は不安がるだろうか、本当は泣き虫だと言っていた。俺を迎えに来ると言っていた。
ごめんな、頼んだのは俺なのに、その約束も難しくなっちゃった。
俺のが切れちゃったから、今頃白龍の糸も切れてしまっているかもしれない。

左手の小指の赤い糸は、数センチ先で切れて、ゆらりゆらりと風になびいていた。


外からはパパゴラス鳥の鳴き声が聞こえた。
ふかふかの寝台に身を埋める。羽毛100パーセントかな、ものすごく柔らかい。さすが八人将の寝台。
「それにしても良く出来たお話ですねぇ」
口元を袖で隠しながらクスクスとジャーファルさんが笑う。
「本当の話なのに、今だって小指に残っている赤い糸、見えるんですからね」
左手を頭上にかざす。赤い糸は、千切れてはしまっているが、ひらひらと俺の目の前で揺れていた。
「私には見えませんねぇ」
「そりゃあ、俺だけですから」
そうですか。そうなんです。それじゃあ仕方ないですね。仕方ないですよ。
「じゃあ、もう一人の彼に会ったことは?」
「いいえ、無いです。名前だけは覚えているんですけど、何せ小さい頃の夢の中でしか会えなかったから、もう顔は思い出せないんですよ」
「そうですか、なら庭で出会ったお兄さんは?」
「そのお兄さんも、顔、思い出せないんですよ。せっかく泣けるようにしてもらったのに、薄情ですよね記憶って」

もう全部、ふにゃふにゃなんですよ。曖昧で、そのくせ、全部忘れられないで覚えてる。

アリババ君がゴロンと寝がえりを打つと、枕を抱えてもう一度寝がえりを打った。
「でも、もしかしたらお兄さんにはもう会ってるかもしれないです。確か、シンドリアの人だとは思うんですけど」
そうだね、もう会ってるね。
「でも、うーん、やっぱりどうでしょう。シンドリアに来てから銀髪の人なんてそうそう見かけませんし」
アリババ君はごろんごろんと寝がえりをうっては考え唸る。ごろごろと転がり過ぎて、広い寝台から落ちそうになったところを掴まえて自分の方に寄せる。じっとしていましょうね。
「あっ、そういえばあのお兄さんとジャーファルさん、少し似てる気がします!」
似てるも何も、同一人物なんですけどねぇ。
「そうですか?」
「やっぱり訂正します、ジャーファルさんは初対面の子供の頭を殴ったり、荒い言葉を使ったりしませんもんね」
へへへ、と笑う彼の髪を撫でる。あの頃は私も若かったんですよ。
「それはそうとして、良かった」
「何がですか?」
「アリババ君の赤い糸が切れていて」
きょとんとした彼の左手を取り、口づけを落とす。
私には彼の言う赤い糸が見えない。でも、もし視界にその赤色を映すことができれば、すべて解いて捨ててしまうだろうな。それから新しい別の色の糸を巻きつけるだろう。嫉妬とはなんとも醜いものか。
「他国では、左手の赤い糸は運命の相手と繋がっているという伝承があるんですよ」
「へぇ、そうなんですか」
物珍しそうにアリババ君が左手の小指を眺める。言わなければよかった。
「だけど、それはもう切れちゃってるんですよね?」
「はい、そうですけど」
「今度、市場で糸でも買いに行きましょうか」
「はい?」
「運命の糸、私と繋げてみませんか?」
笑って言えば、数秒置いてアリババ君がボンっと顔を真っ赤にさせた。なぁに言ってるんですかジャーファルさん。良い案だと思ったんですけどねぇ。もう、ふざけてないで寝ましょうよ。ふふ、そうですね。
明日は煌帝国から第四皇子が留学に来るらしいので忙しくなる。
アリババ君の言う通り、早いうちに寝ておいた方が良い。

確か第四皇子の名前は練白龍と言っただろうか。
奇しくもアリババ君の言っていた夢の中の子供と名前が一緒だ。
だが、夢は夢だろう。そんなこと、あるはずがない。

既に寝息をたてはじめた恋人を胸に寄せて、そっとランプの明かりを消した。


何にせよ、繋いだ糸は私が切った。

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