鏡中の美女パロ/モブ

中の君

外は雨が降っていた。
激しい雨ではないが一日中ぐずついた模様で、窓の外は淀んだ灰色に濁っている。
スティーブンは窓を閉めきらず雨音に耳を傾けながらページをめくった。寝椅子は年季が入っているのか色褪せている。
机には趣味が良いとは言えない本が乱雑に積まれており、壁には骸骨が騎士のような姿勢で立っていた。
その手にはシンプルな装飾が施された剣を手にしている。床には武具が散乱し、人を招けるような部屋では無い。
だが彼は生まれてこの方友人をこの部屋に招いたことはなかったので何の問題も無かった。

古い街の中にしては家柄が良く、見目も良い。基本的に人当たりも良い彼は学友からの人気も高かった。剣術の腕も確かなもので古今問わず武具に関して知識があり、学友達は鎧や剣を選ぶ際は皆彼を連れて選んでもらうのがセオリーだ。
親友は一人居るが、彼の家に遊びに行くことはあっても自分の家に招くことは無い。
そこそこに富はあるが生憎親友は大貴族の出だったもので高さがあるだけの古い屋敷に招くには気がひけるのだ。
恥だと思うことは無い程度には家に誇はあるが、来たところでこの部屋だ。居間だって広いだけで面白みのあるものなんて無かった。
古いだけで何も無い街は鬱屈した雰囲気を漂わせていけない。大学を出たら早々に街を出ようと若者達は口々に話している。スティーブンも同じ考えだった。
轟々と強くなって行く風に細雨がさも豪雨の様に窓を打ち付けた。
開いたところからジトリと湿らせるものだから彼はようやく重い腰をあげて窓を閉め切った。

一つ鎧を見てもらいたい。気になってはいるのだが、君の眼からの評価を合わせ吟味したいのだと親友のクラウスに声を掛けられ、スティーブンは喜んでクラウスについて行った。
店は大通りから外れた薄暗い裏通りにあった。店の看板はさびついており、入り口のアーチに絡まる薔薇も手入れを怠っているのか茶色く薄汚れて本来の優美な姿からは遠のいている。
親友はそこだけは残念でならないと言った。彼の趣味は男としては珍しいかな、園芸である。
「意外だな。君の欲しがる鎧があると聞くからにもっと大きな店かと思ったんだが」
こんな店があったとは街中の店に詳しいスティーブンですら知らなかった。
「確かに小さな店ではあるが、品揃えはいいと思っている。君が気にいる物もあるかもしれない」
「そうだといいが」
扉を押すとチリチリとフクロウの形をしたドアベルが鳴った。
中は埃っぽく暗がりで、等間隔におかれているランプと窓から入り込む日の光がなければ昼か夜かもわからない有様だ。
店の中はガラクタと言えるものばかりで積まれておりよくまぁ潰れずにやっていけるものだと逆に感心する。
「スティーブン、これなのだが」
ガラクタを掻き分けた先にお目当ての品があった。
検分してみれば意外にも良い出来のものだ。装飾として飾るにも実戦にも使えるだろうと太鼓判を押せば親友はすぐさま買うことを決めた。
会計を待つ間に店内の壁をぐるりと見渡せば大小様々な鏡や標本が不整列に並べられており、その一つにふと目がいく。
古い楕円形の鏡で埃を被ってはいたが縁どる枠の装飾が珍しい模様で興味を引いた。もっと近くで見たいとも思えたが会計が終わったらしい。素直に並んで店を出た。
大通りまで来るとついでに他の店も見て回ろうとも思ったが、如何せん鎧が邪魔で示し合わせた様に今日は大人しく帰ろうとお互い反対方向に足を向けた。

件の店に通じる裏通りを少し過ぎた頃、あの鏡をじっくりと見て見たいとむずむずとした重痒い気持ちになってコートをくるりと翻し、薄暗い店に引き返す。
店主はチラリとこちらを一瞥しただけですぐに老醜をカウンターの下に向けた。
1度目に入った時は視界にも入れなかったが意識してみるとどこか嫌悪感の様なものを感じる男だった。極力接触したく無かったが鏡を手に取るにはスティーブンの頭三つ分届かない場所にあり降ろすには些か不安定だ。
仕方なく店主に声を掛ける。
「あの鏡を降ろして欲しいんだが、脚立があるなら貸して欲しい」
男は返事を返さずに低い背を丸めて店の奥へと進む。
よろよろと鈍間な亀の動きにしびれを切らして男の手から脚立を奪い取るとそろりと宝石を扱う様に注意深く鏡を降ろす。
ランプの近くで見れば繊細な細工で意匠のセンスの良さが垣間見えた。懐から絹のハンカチで枠縁、鏡を拭いてやれば新品の様に傷ひとつなく殊更この店にはあまりにも不釣り合いな出来の鏡だと思えた。
値段を聞くと想像していたよりは高かったが買えないほどでも無い。
「──もし宜しければ、お客様がその品を手放したい時に、いの一番に私めに買値を付けさせて頂けるんでしたら4分の1の値段でお売り致しますよ」
眉間にしわを寄せて男を振り返ると挙動不審にゆらゆらと左右に揺れて視線は忙しなくあっちこっちをキョロキョロと見回していた。
「それはまたどうして?」
「大した理由などございませんよ。それよりも良い条件だとは思いませんか旦那様」
しばし考えを巡らせてから早口に「ええ、良いでしょう。手放す時には貴方の元へ持っていきましょう」と答えを出せば「誓ってくださいますか」となおもしつこく言いよる男ににっこりと微笑んだ。
「誓いますよ」
男はようやく納得したのか提示された通り4分の1の額を渡すと手早く鏡を簡素に包装した。
「お屋敷の方までお持ち致しましょうか」
「いいや、自分で持っていくよ」
嫌悪感が沸き立つ男から一刻も早く離れたい。
扉をくぐる際に男の声が聞こえたが、要領を得ないものだったので深くは考えなかった。
「これで6回目だ、いい加減坊ちゃんも飽き飽きしているだろうさ」

鏡が傷つくことが無いように大事に脇に抱え込んで帰路を急ぐ。
早いとこ自室に掛けじっくりと眺めたいと欲求は膨らみ、敷地に入ってからはほとんど走る様にして家へと駆け込んだ。
包装を丁寧に解いて鏡を取り出すと羊毛の柔らかな刷毛で丁寧に枠縁の細かいほこりをとる。続いて磨き上げると城に置いてあっても謙遜無いほどに美しいものがそこにあった。
しばらくは彫刻をなぞったりスケッチに写したりしていたが一通り満足すると部屋の壁に掛けた。
武具や本で少しばかり荒れた部屋にその部分だけ異質に美しい鏡があるものだから、そのうち掃除でもするべきかと鏡に映っている部屋を何の気なしに見つめていたその時だ。

鐘の音とともに声を失うほどの衝撃がスティーブンの脳天を打ち抜いた。
勿論比喩であったが、実際に撃ち抜かれていても納得するほどの驚きと衝撃。
なんの前触れも、物音一つせずに、鏡に映っている自室の部屋に恐る恐ると青年になりきらない齢に思える男、少年と言っても差し支えないだろうか。
が、入ってきたのだ。

反射的に扉に目を向けるが誰かが入ってきた様子も開いた様子もない。
鏡に目を移すと少年はそろそろとした躊躇う足取りで武具の散乱した床を進み、ゆったりとした動作でスティーブンの寝椅子に腰掛ける。 幼さが残るあどけない表情と見えているのか分からない糸目には何処と無く愛嬌がある。
彼はきょろりと見回すと壁にかけられた骸骨にびくりと肩を震わせた。
先ほどまで閉じられていた瞳はパッチリと見開かれ不可思議でいて美しい青い燐光を放っており、彼が人か亡霊か判断をつかせない。骸骨から距離を取る様に寝椅子の端の端に小さな身体をさらに小さく縮こませて不快そうに顔を歪めた。
1分余り、骸骨を睨んでいたが疲れた様にくたりと寝椅子に身体を預けるとすぐさまに眠りに就いた。
胸が小さく上下しており、眠った顔は益々持って幼い。
スティーブンは瞬きも忘れてじいっと鏡の中の少年を見入っていた。
むずがる様にして眠る彼が顔を歪める。閉じた両目から大粒の涙が溢れ出してきて頬を伝い、寝椅子の布地に染みた。
ざわりと言いようのない気持ちが込み上げ思わず口元を抑えた。
草臥れた絹地の白いシャツから投げ出された脚も、白くて細い病人の様でスティーブンが掴めば指と指とがくっ付くのではないかと思えた。
急に気恥ずかしい気持ちになって来て、不躾な自分の視線に少年が気づいていやしないかとそわそわ落ち着きが無くなる。
何度も鏡の前を行き来したがその心配はなさそうだ。
映り込んでいる少年は涙を流しながらも懇々と眠り続けていた。
出来るだけ音を立てずに寝椅子に近づく。
当たり前にそこには誰もいないし涙が染みを作った痕もない。それでも鏡を見れば自分の手元には少年が居る。
「君は」 それだけ呟くと自分の声が震えていたことに気づき、情けなさからそのまま口を噤んでしまう。
珍しく夕食の時間になっても降りてこない彼を使用人が呼びかけるまで、スティーブンは立ったまま鏡を見つめ続けていた。


次の夕方、昨日と同刻。
スティーブンは鏡を力強い視線で見つめていた。
あの後夕食から戻れば鏡の中の少年は姿を消し、あれは自身の幻覚かと酷く狼狽した。
何せ、かの少年が居たことを証明する物など何一つとしてないのだ。
昨日の出来事を説明したところで精神病院に担ぎ込まれるのが関の山だ。美しい鏡が見せた白昼夢だと言われた方が納得するしそれならそれで終いだろう。終わり、終焉、幕引き。
されどスティーブンは終わりにはしたくなかった。もう一度あの少年に会いたいと思ってしまった。
それが何を意味しているのか。正直に言って自身はストレート、ヘテロだ。異性の好みもあの少年とは程遠い。
なのに魅かれてしまった。興味と愛情の狭間にゆらゆらと漂っている。ここまで己の趣味とは逆を行くのに目を離せない、意識が四散する、いっそまやかしの類なのかもしれない。
それでも良いと思った。
鐘が鳴る。激しく高鳴る胸を押さえて鏡を見つめた。
息を飲んだ。
音も無くするりと彼は扉を開け寝椅子まで足を運び、横たわる。
来てくれた!今日も彼は来てくれたのだ!
スティーブンは跳び上がり叫び出したい気持ちをぐっと堪えるよう下唇を強く噛んだ。
少年は相変わらず壁の骸骨に怯えているのか潜めるように身体を縮ませ丸まる。
苦悶の表情であった。瞳からはほとほとと雫が溢れる。悪意の全てに耐えるかの様に口元を一本線に引き締めている。その様すら愛おしいと思えた。
名前も知らない、この世に存在するかも分からない。同じ性で相手は自分を知り得ないと言うのに、本当にまやかしや悪魔なのだろうか。
でも満足だ。今日も来てくれたなら明日もきっと同刻彼は鏡の中のこの部屋に来るのであろう。
それがほぼ確定しただけでこうも安心するなんて、滑稽だと笑われるだろうか、愚かだと蔑まされるだろうか。他人からの評価などどうだっていい。
現にスティーブンは鏡の彼によって満ち足りているのだから。
確固たる安心を手に入れたところでスティーブンはハッと自身の部屋の惨状を思い出した。
床に散らばる武具も、壁に掛かった骸骨も、不安定な形で積まれた書物も小動物の様な少年からしたら随分と居心地が悪いだろう。寝椅子も使い古されたものだ。
彼は薄い絹での寝巻きだというのに羽織るもの一つ無い。裾は膝下に来るほど長いがそれでも晒された脚は寒そうだ。
足を組み直し思案する。明日は早めに帰ろう、それから掃除だ。
彼は一体どのような反応を示すのか、怖がらなければ良いのだが。寝椅子に涙が染みて行くのを食い入るように見ていた。

少年は変わらず眠り続けている。


思っていたよりも帰りが遅くなった。
授業中の討論が白熱し、最後には物の投げ合いになった光景を見て近頃の議会と学生は案外大差無いように思えた。
それにしてもこれほど時間が伸びるのなら講読の方を取っておけば良かった。不本意な思いを抱えたまま石畳の街を早足で抜ける。
買い物をする時間なんて微塵もない。掃除も出来るか怪しい。鐘の音が鳴るまでそう長くない。
帰宅の挨拶もせずに館の一番上にある部屋へと駆け上る。
一番先に彼が怯え怖がる骸骨を物置に移動させてから足元に散乱している武具をかき集めて暖炉の灰の中へと突っ込んだ。普段ならば考えられない暴挙だ。
灰まみれになった武具の価値を知る者が居るのなら今すぐこの青年に詰め寄って胸倉を掴みあげ、窓から放り投げているかもしれない。
しかし残念ながらそれを知る者はこの場に居なかった。スティーブンの完全勝利だ。
そうこうしている内に少年の現れる時間になった。
結果的には骸骨の撤去と武具と本の隠蔽しか出来なかった。
入って来た彼は足元に散らばっていた武具が無くなったおかげだろう、スムーズに足を運び寝椅子に背をもたせた。
警戒するように壁に目を向けてからそこに何も無いのを確認すると首を傾げながらも表情を輝かせた。
初めて見る穏やかなその顔に息が詰まった。
それでもまだ苦しげな少年だったが昨晩よりは遥かに居心地が良さそうにしていた。怯える物が無いと分かった彼はきょろきょろと部屋を興味深げに見回していたが特に目ぼしいものが無いとわかると寝椅子に横になる。
今夜は縮こまることもなく、十分に身体を大きく伸ばしていた。
瞳からはやはり雫が溢れた。
今日は彼を最後まで見守ろうと手軽に摘める軽食を部屋に持ってきていた。
ベッドに腰掛け鏡を眺めながらもそもそと口に運ぶ。
ふとこれは少年をおかずに飯を食っているんじゃと嫌な考えが頭を通り過ぎたが、夜食程度なのでメインディッシュとは言えないと難癖を付けては大丈夫だと自身を宥めた。
深く眠りにつく彼は時折あどけない表情から苦痛に歪められた表情へと変わっては口元を小さく動かしている。
寝言だろう。どんな声をしているのか、歳は、名前は、どうして毎夜この鏡の中に姿を表す?
聞きたい事、知りたい事が山のようにあるのに知ることが出来ない。目の前にいるはずの存在に触れない。どうにかあの青い瞳に僕が映れやしないだろうか。
少年が鏡に映っている間。まるで自分の部屋だけが現実から切り取られた錯覚に陥りそうだった。
この心地を人は何と表現するのだろう。
スティーブンは詩人では無いしリアリスト寄りだからか、既存の言葉を借りるしか出来ないことを恨めしく思えた。
時計の長針が半周した頃。
一心に眠りを貪っていた彼だったが、目を閉じたままゆるりと立ち上がるとふわふわとした足どりで部屋の外へと出て行ってしまった。
また戻って来るかと暫くの間待っては見たが戻る気配も無く、昨日も一昨日もこのようにして彼はこの鏡から消えたのかと納得した。
彼が居ない部屋は夢から覚めた無機質なただの部屋にしか感じれない。今まで自分がどうやってこの部屋で過ごして来たのかを忘れてしまいそうだった。

鏡の彼が周囲のものに関心を示すと分かってからは、この殺風景な部屋を模様替えする必要があるなと判断した。
幸運な事に翌日は大学も休みだったもので朝から街に買い物に行ける。
とにかく第一にあの色褪せた寝椅子を新品に取り替えることから着手する事にした。
家具屋を見て回り、柔らかなクリーム色をした寝椅子を購入する事にした。
流れるような曲線を描いた背もたれの端部分にはアカンサスの透かし彫りが入っており、肌触りの良い布地は薄いダマスク柄で光の加減でその美しい模様を視認することが出来る。
ついでに同じ模様が入った薄い光沢をしたペールグリーンのクッションも買っておいた。こちらには四隅にタッセルが付けられてある。
毛布か膝掛けも良い物が無いかと軽く見てみたがこちらは家の予備に置いているシルク毛布の方が良さそうだ。代わりに最近仕入れたばかりだと言うペルシャ絨毯を購入。
たまたま居合わせたクラウスに、部屋を彩るのなら花が必要不可欠だと推されて明日の帰り、ラインヘルツ邸にいくつか分けてもらう予定が出来た。
クラウスの園芸は趣味の領域を遥かに超えてそこらの街で買うよりもよっぽど美しく、長持ちするものばかりだ。
部屋の模様替えと忙しなく動く僕についに気になる相手でも出来たのかと母が覗きに来たので曖昧に誤魔化した。
いささかイスラーム風に寄った見栄えになってしまったが(主に絨毯と寝椅子のダマスク柄のせいだと後になって気づいた)ことの外僕は満足していた。
母は机や本棚、ショーケースも変えるべきだ、何なら壁紙も変えた方がいいと口煩く言っていたがそれらは聞き流した。
そう一気に変えては彼が怯えてしまうではないか。

夜、彼がそろりと部屋に入ると目をパチクリと瞬かせ恐る恐るといった手つきで新しい寝椅子に触れ、そうっと慎重に座る。
鮮やかな異国情緒溢れる模様の絨毯を踏みしめ、微笑みを微かに浮かべて並べておいたクッションに頬擦りをした。
僕はこの瞬間に人生においての様々な疲労感が一気に全て吹っ飛んだ。
見ようによってはクラウスのように背後に花がぽんぽん飛んでいるかもしれない。
だがやがて少年は悲しげな顔になり、細い目に涙を浮かべるとクッションに顔を埋め、咽をこぼしているのかヒクヒクと震えた。
ずり落ちた毛布はその役目の通り、彼の身を僕から隠すように覆う。
出来る事なら今すぐ泣いている少年を掻き抱いて、その額にキスをしたかった。大丈夫だと言い聞かせてやりたかった。
嗚呼なんて厄介な、どうしようもない恋だ。鏡の彼は近いようでいて遠過ぎたのだ。
部屋の改装を進めるにつれ、苦しげな中にも彼の表情が柔らかくなって行くのが分かった。
おまけに彼ときたら毎夜毎夜新しく変わるもの、増えたものを目に留めては甘ったるい微笑みを浮かべてくれる。
そのうち誰かが自分の世話をしていると気づいたらしく、感謝の表情を浮かべては有り難がる様子を見せるものだから僕の手は休む暇も無い。
部屋はすっかり様変わりしてしまった。
彼の雰囲気に合わせて部屋作りをしたものだから部屋の持ち主のはずの僕自身がそわそわと他人の部屋にいるような落ち着かない感覚になる。
部屋には緑が増えて、明るい壁紙に合うように照明すら変えてしまった。

「最近の君は随分と楽しそうだ」
新しい花を貰いに行った際、親友に指摘された。
照れ隠しに頬をかきながらも否定はしなかった。
「部屋にあると心潤う物って花の他には何があると思う?」
「絵はどうだろうか、丁度昼過ぎに画商が来る予定だが君も見るかね?」
絵画にこれといって興味は無かったが彼が喜ぶ姿が見れるならと首を縦に振る。
人物よりは風景画の方が良い気がして数点買う事にした。
華やかな春を描いたもの、写実的なタッチの水面に映る山脈など。ついでに博物画をいくつか。こちらは完全に自身の趣味だ。
いつものように横になった彼の目が、壁に飾ったばかりの絵に留まった。
起き上がった彼は絵を食い入るように眺め始める。それが非常に楽しげな様子だったものでこちらとしても嬉しい。
だがまたしても彼は悲しそうにくしゃりと顔を歪めてはクッションに顔を埋めてしまった。
何があそこまで彼を辛く、悲しげな表情にさせるのか分からない。
スティーブンは五日起きに花を替え、写真立てに小さな絵を、寝椅子には流行の詩集を置いた。
窓にも細工をし、西日からの陽射しが色付いた影を落とすようにした。
そこだけ見れば一瞬教会の中にいるかのように錯覚するかもしれない。
少しだけ薄暗い部屋に降り注ぐ淡い色が、彼の白いシャツを鮮やかに着飾らせ、少年は見惚れるようにその影を眺めていた。
スティーブンはその光景をずっと見ていた。
少年が涙を流さなくなったのはそれからだ。
辛そうな表情はあらかた消えて、穏やかでいて希望に満ちた表情をする様になった。
それでも時折悲しげに、不安と苦しみを纏う面持ちをみせた。

空想した。妄想と言っても良い。
鏡の少年が隣に居たなら、その手を引いて街を散策するだろう。何も無い街だけど彼が一緒ならきっと楽しい。
武具屋で彼に似合うものを誂えてもいい。クラウスに頼めば庭園にも連れて行けるだろう。彼は草花を好いていそうだ。
風が吹き抜ける心地よい日なら少し遠出をして湖が綺麗な田舎に行くのも喜ぶかもしれない。あの絵画にあった様な場所だ。
雨ならこの部屋で二人読書をすればいい。寝椅子に詩集や本を置いてから分かったが彼は詩よりも物語の方が面白いらしい。
居てくれる時間が短いので短編小説を置いたら黙々と読んでくれた。但しブラックユーモアはお気に召さない。
スティーブン一押しの一冊は一話目から読むのをやめたらしく三日間手をつけてもらえなかったので渋々別の物に変えた。
寝ても覚めても鏡の少年の事ばかり考えているものだから学友どもからは「夢遊病患者」とあだ名をつけられそうになった。
そこまで浮ついているのだろうか。

彼の表情に新たな変化が起きた。
微かに人目を意識している様だった。
どことなく懐疑的に辺りを見回していたが情熱的な(熱狂してもいる)瞳にじっと見られているのを悟ったようにそれは強まり、ついには顔や首、指先まで真っ赤に染まってしまった。
視線の先が鏡から来ているとは気がついていない、けれどあからさまに他人の存在を意識したようで毛布を頭からつま先まですっぽりと被り隠れてしまった。
僕は高揚し、多幸感に浸った。
見えてはいないのだろう、けれど彼は、あの少年は確実にスティーブンの存在を意識したのだ。
もっと自分のことを知って貰いたい。意識をこちらに少しでも向けて欲しい。
彼が鏡の魔法に気づいたのなら顔を合わせることは出来るだろうか?何処かに存在するのなら居場所を伝えて、いいや僕が赴こう。
スティーブンは翌日の朝を迎えても落ち着かないでそわそわと肩を揺らした。
逢瀬の予定でもあるのかと父に揶揄われたので素知らぬ顔で無視を決め込んだ。母は口元を緩めて息子の珍しい落ち着きのなさを楽しんでいる。


その日の少年は寝巻きのシャツではなくきちんとした正装だった。着慣れないのだろうか窮屈そうにしている。
彼は立ち上がると視線を探すようにくるくると部屋を見回して、

目が、目が合った。

鏡の向こう側から僕の姿が見えているのだろうか。望んでいたはずなのにいざそうなると気弱になる。
唇が引きつった。なんと声を掛ければいいのか分からずにただじっと彼を見つめていた。
今までいったい誰が部屋を改装し、花や絵を飾り、物語を置いていたのか。視線を向ける他人の存在を、誰が少年を見つめ続けていたのか。全て合致したのだろう。
強いショックを受けたようにペタンと床に座り込むと頬がみるみる紅潮し、見開かれた不思議な瞳は薄い膜を張る。
その姿に酒でも浴びたかの如く、くらりと頭がふらついた。
欲情した生娘のようにも見え、何を馬鹿な事をとすぐさま邪な考えを諌めた。
目を逸らし、一呼吸置いて再び目をやると彼は白百合の花のように蒼白になっていた。
目元から溢れ返った雫をこぼして俯き、首を左右に振る。
それが拒絶だと分からないほど愚鈍ではなかった。
震える足を叱咤し、逃げ出すように部屋を飛び出した彼に「待ってくれ」とも「話を聞いてくれ」とも言えなかった。
少年の居なくなった鏡には先ほどの彼のように真っ青な顔をした男が映っているだけだった。

失敗だ。どう考えても失敗でしかない。
考えてもみろよ、見知らぬ部屋でずっと見つめられ続けていたんだ。
気持ち悪がらない訳が無い。貴婦人なら卒倒しているところだ。気取らせてはいけなかった。触れてはいけない場所にいたのだ。
全世界の重圧に押し潰される心地だ。ろくに息すらできない。赤ん坊以下か俺は。
案の定翌日から鏡は少年を映し出さなくなった。
相応の罰だと分かった。
不幸だったのは、それでも諦めきれなかったことだ。


惨めな気持ちだ。
心が休まる暇など片時もない。親友が気を遣って贈ってくれた花も愛でる彼が居なければ無用の物で余計に鬱ぎ込む結果になった。
それなのに夕方、いつもの時刻になると縋るように鏡の前に立ち、少年が姿を現さないと分かるや否や重い溜息を吐いて寝台に俯せた。
彼のあまりの落ち込みように学友らは失恋でもしたんじゃないかと当たらずとも遠からずな答えを出して、毎晩夜遅くにサロンへと連れ出した。
社交場に集まる淑女達はここぞとばかりにスティーブンに声をかけたが皆愛想笑いで躱されるばかり。
学友らは顔を見合わせこれは相当だと肩を落とし、口々にいい女は他にもいる、酒を飲んで忘れようとお決まりのセリフを投げかけた。
色恋沙汰に疎い親友の耳にまで、あのスティーブンが落ち込んでいる理由は意中の女に振られたからという噂が届いた。
あまりにもぎこちない慰め方に渇いた笑いしか出なかった。全然スマートじゃない。

「俺はもう駄目かもしれないクラウス」
酒を仰いで顔を覆った。クラウスは気位の高い親友の、こんな目も当てられない姿は初めて見た。
「嫌われたに決まってる。合わす顔もないしもう二度と会えないかもしれない」
「不躾な質問になるが、その、スティーブン。君の噂の人物がこれまで君が楽しげにしていた理由かね?」
指の隙間からチラリと一瞥し、上ずった声で肯定した。
「あの子がいるだけで世界中で一番幸せだって思えたんだよ、会話をしたわけでもないし、お互いに名前だって知らないんだ。それでも幸せだったんだ」
親友は頷いて、それから肩を叩いた。
「だが一度振られたくらいで全て失ったという訳ではないのだろう?君は諦めの悪い男だと知っている。かの人に嫌われたと言うのなら誠心誠意向き合い謝罪をすべきだ。君がそこまで想う相手なら許してくれるはずだ」
「嗚呼そうさ、普段の僕ならそうしてる。でも、彼は難しい。非常にだ。言っただろう?もう二度と会えないかもしれないって」
「それ相応の身分の方なのか」
彼、と言った言葉に僅かに反応したが否定の言葉もなく先を促す。親友の好ましいところだ。
「いや、身なりは良かったが爵位は僕の家より下だろう。問題はそこじゃないのさ」

君は実在するかも怪しい人物に恋焦がれたことはあるか?

親友は興味深げに眼鏡の奥から翠眼を瞬かせた。
酒を追加し混濁しつつも鏡の少年について話した。酒が入っていなければこんな話はクラウスと言えどもしなかっただろう。
俺なら正気を疑う。だが彼は真摯に話を受け止めてくれた。
謝りたい、話をしたい。なのに彼が現れないのであれば接触は図れない。もう五日も姿を現さない。
管を巻けば君が彼に会いにいけば良いのではないか、それが無理ならば会いに来させればいいと平然とした顔でクラウスは言った。
床には空になった瓶が溢れかえっている。心底こいつすげーなと思ったが、あれはあれで酔っていたのかもしれない。
彼と僕は明け方近くまであらゆる可能性を議論した。
亡霊か、鏡の中だけの存在か、はたまたこの世界に存在しているのか、過去・未来・現在の時空間が歪んでいる可能性は?魔術的なものではないか?それは鏡か少年か?どうして彼は部屋に違和感を持たなかった?慣れていた?だが警戒はしていた。苦悶の表情に、溢れる涙に何かしらの意味はあったのではないか。呪いではなかろうか。
やはり魔術の線が濃いだろうと言う話になって、軽く仮眠を取った後にクラウスの邸に赴いた。あの鏡を携えて。


「昔は魔術を生業とする者が多くいたが今では希少だ」
クラウスに案内されて古めかしい書庫から怪しげな書物や研究の冊子を取り出す。
かつてラインヘルツも魔術師を雇っていたのだろう。大きな貴族の家はどこだってそうだ。
「そりゃあペテンばかりだからさ。錬金術の方がまだ信頼が置ける」
「確かにマイセンは素晴らしい」
才ある錬金術師を幽閉した賜物だ。今や最新の科学に移り変わろうとしているがやはり前身は錬金術なのだろう。
パラパラと分厚い本をめくると理解に悩む文章と呪文で頭痛がした。
「手っ取り早く術師に聞くのはどうだ」
「残念ながら私のツテを使っても難しい」
「だーよなー」
本当に魔術を扱える者が居たとしても魔女狩りで狩られているか潜んでいるか。
公に出ることは難しかろう。おのれハイリンヒめ。女に振られた男の八つ当たり被害が数世紀隔ててここにまで来ている。
とにかく似たパターンをまとめて書き出していく。
夕刻近く、休憩を成されたらどうでしょうと優秀な執事に諭され目を休める。
切り分けられたクグロフを摘みながら鏡を眺めた。鐘が鳴っても少年は姿を現さない。ただの美しいだけの鏡だ。
彼が現れてくれなきゃ自分はほとんど病気みたいだ。触れもしない少年を求めて怪しげな書物を読み漁る。
クラウスが親友で良かった。彼なら僕のこの惨状を公言しないし気のおかしいと言われても否定出来ない行為に付き合ってくれている。他の奴らだとこうはいかない。
素晴らしい出来の菓子を胃に詰め込んでから大きく伸びをした。
さぁてと、続きだ続き。
死人のように落ち込んでいるよりかはまだ一心に没頭している方が気が和らいだ。
これで駄目なら本当に打つ手が無くなると分かっているから余計集中できる。
朝から晩まで三日間詰め込んで、ようやくそれらしい可能性にたどり着いた。
実際に使えるかどうかはやってみないと分からない。
簡単に言うと降霊術を多少アレンジしたものだ。

少年を鏡の中から引きずり出す。

ひどい蛮行だと思わないでも無いがこちらも必死だ。彼が幽霊なのか、生身であるのか。そこが曖昧だったがこれならどちらでもいけるのではないかとクラウスに話した。僕の希望としては生身だと良い。
彼に許しを請うて、得られたのなら触れ合いたい。声を聞きたい。
懲りない奴だと笑っていいぞと言ったけれど親友はソフトに情熱的だと表現してくれた。

湿り気のある蒸し暑い夜で、遠く雷の気配がする。
部屋の中央を片づけ赤い円を描いた。
その真ん中に鏡を置き符号を並べ、怪しげな呪文を書いていく。部屋の明かりをすべて消してから心細くなるほどに弱い灯を燈す蝋燭を一つだけ用意する。
両親が見れば昏倒するか何かに憑かれでもしたかと教会に連れて行かれそうだが今夜は母の友人の会食に出て家には使用人と僕だけだ。
時計の時間を確認してから香料を撒き、呪文を繰り返し唱える。
視界がブレているのか空間が歪んでいるのか。部屋の輪郭が揺らいでいる。

鏡の中に少年が映る。
声が詰まりそうになるのを無理やり押し出した。
少年は不安そうに辺りを見回した後、突如何かに導かれるかのようにふらりと鏡の部屋を出て行く。
一瞬失敗したかと思ったがそうでは無かった。

初めて彼を見たあの日と同じように恐る恐ると強張った顔で少年が部屋に入って来た。
鏡の中の部屋ではなく、この、今、僕が立っているこの現実の部屋にだ!
等身大で目にする彼の姿にスティーブンは身震いした。それでも噛まずに呪文を唱えている己を称賛したかった。
少年は疲れ切った弱々しい顔をしているものだから意思が挫けそうになる。
彼の疲労の原因は言わずもがな自分だ。挙句黒魔術じみた方法で無理やり呼び出している。
しかしその罪悪感以上に少年の目に自分を映してほしいと、声が聞きたいと、手を触れたいと望んでいた。
少年はスティーブンの存在に気づいていないのか、いつもの寝椅子や絨毯がないことに不思議そうにしていた。
スティーブンは彼の顔をじっと見据えたまま次の呪文を唱えた。繰り返し、繰り返し唱える。
彼は落ち着きなく部屋の中をあっちこっちと歩き回っていたが次第にゆっくりと、訝しむようにスティーブンの方を向く。
最後の暗唱を震える声で唱え終わると少年はしっかりとスティーブンの姿を認めた。
彼は瞳を大きく見開き血の気が失せた顔でまじまじとこちらを見つめた。
お互いに長い間、時間が止まったかのように見つめ合っていたかと思ったが、実際には秒針の針が5つ進んだ程度だった。
ハッと我に返った僕は彼の前に跪く。
ひゅっと息を呑む音が聞こえた。
それでも僕は跪いたままでいた。
「なんで」
少年の声は可愛そうなほどに震えていた。この子はこんな声色をしていたのかと僕は心臓が速く脈打つのが手に取るように分かった。
「なんで、貴方は僕を連れ出したんですか」
僕はそこで顔を上げハッキリと告げた。
「許しが欲しかった。君の許しが」
「何を許せと」
ずり、と後ずさる彼の手を捕らえた。
柔く温かな手だった。
僕の頭の中は混乱を極めて当初予定していた台詞なんてものはすべて抜け落ちてしまっていた。
「僕の蛮行を許してほしい、そして出来るのなら君を愛させてほしい」
我ながら図々しいなと思ったが本心だった。
少年は顔を赤くしたり青くしたりと忙しなくしていたが、僕の視線から目を背けるように俯いてか細い声で手を離してくれと呟く。
僕はそれをあえて無視した。
「許しを」
力強く求めた。
彼は悔しそうにキッと目を向けた。
人智を超えた瞳に圧倒されながらも視線を逸らしはしなかった。僕は辛抱強く返事を待った。
硬直状態が続いたがそれも彼の返事で解けた。
「最初から許しを請われるような事なんて何一つないですよ。それに貴方は僕に良くしてくれました。視線は、怖く無かったといえば嘘になるけど、部屋の彩りだけで優しい人だとは感じ取れましたから」
だから、大丈夫です。言葉が欲しいなら差し上げます。貴方を許します。

その一言に僕は身体中の力が抜けきった。
謝罪と感謝を述べて彼の手にキスを落とした。少年は泣き出しそうな、どうすれば良いかわからないと顔に書いてあった。
戸惑いのみ。嫌悪感はないようでほっとする。嫌われてはいないのだろう。
直に触れる彼は見ているだけよりどれほど素晴らしいことか。
彼にもっと触れたいと、抱き寄せようとして短い悲鳴を浴びせられた。
強引過ぎたかと今になって後悔し始めたが杞憂だった。
彼は床に置かれた鏡を怯えるように指差した。
「この鏡っなんで!?どうしてだよ!?」
彼が時おり覗かせていた悲しみと苦しみの入り混じった苦悶の表情。それが例の鏡に向けられる。
彼の視線を鏡から僕の胸の中へと力づくで逸らした。
小刻みに震える彼のこめかみ、頬へキスをして宥めた。それでも彼の震えは止まらずに嗚咽まじりの声で叫んだ。
「あの鏡が!あの鏡がある限り僕は奴隷だ!」
伝う涙を拭ってやりながら、どういうことだと話を促すも彼の言葉は要領を得ない。
呼吸を整えさせてから喋らせそうとすると途端に声が出なくなる。

呪いか。

彼は縋る眼差しを向けた。


「貴方の、貴方の使ったこの魔術は。その呪文は、術者と被術者が同じ心じゃないと掛からないのを知っていましたか?」
突拍子もなく話し始めた内容に驚いた。
そんなものは初耳だ。だが嬉しい情報だった。
「なら僕を愛してくれるのか?」
静かに問うた。
色よい返事を期待したが彼は首を左右に振り悲しげに分からないと言った。
思わず詰め寄るようになぜだと言葉を返す。
「鏡の魔法がかかっている間は言えません」
「もう分かり切っている答えだろう?君がここにいるのが何よりの証拠だ!」
焦れったい想いで述べ立てても返事は同じ。
言えない、応えられないとそればかり繰り返していたが、耐えられないと彼は僕の胸を押しやって喚く。
「だって!鏡の所有者は貴方だ!!僕は逆らえない!分からないんです自分でも!鏡の持ち主に引き寄せられてるだけなのか、僕自身の気持ちなのか!自由にならないと分からない!僕は奴隷だと言ったじゃないですか!そんな不確かな気持ちで返せるわけがない!」
ショックを受けた。彼の気持ちは仮初めのものかもしれないと。
「魔法を解けば良いのか?」
僕の一言に彼がゆらりと起き上がる。吟味する眼だ。
「解いて頂けるんですか?」
「方法があるのなら」
少年は憂愁を感じさせる声色で言った。
あります。鏡を壊せばいいんです。貴方が僕を愛してくれるなら、偽りでないのなら。
「偽りなんてない。本心だ」
即答した。
じゃあ壊してくれるんですね?頷く。
「この鏡を割れば生身の君にもう一度会えるんだな?」
「それは答えられません。貴方を騙すことはしたくないから、もしかすれば二度と会えないかもしれません」
部屋がしんと静まり返る。
俺は答えあぐねた。会えない?もう二度と?
壊すと言ったくせに激しい苦悩が湧き上がった。少なくとも今彼は自分の支配下の元にいる。術があればいつでもこうして隣に呼び寄せられる。好きな時に彼の姿を見ることが出来る。
壊せばどうなる?もしかすれば彼からの想いは偽物かもしれない。彼自身は自由の身になるだろうさ、でも運が悪ければ二度と会うことはない。
今更それに耐えられるのか?声と温もりと柔らかさを知って?手放すことが出来るのか?本当に?こんなに彼が欲しいと全身で叫んでいるのに?

スティーブンは躊躇した。
そしてその躊躇いを少年は的確に見抜いた。ほとほとと悲しげに泣きながら言うのだ。
「きっと貴方は貴方自身が思うほどに僕を愛してはいません」
そんな事はないとすぐには言えなかった。本当に彼を想っているのなら取るべき行動は一つなのだから。なのに躊躇った。
口を閉口したままの僕を他所に少年は涙を拭い、顔を上げ、真っ直ぐにスティーブンを見つめ微笑む。
「だけど、僕は貴方が好きです。本物か偽物か分からないけど。変な話でしょう?僕自身の自由よりも貴方の愛を尊重したいと思ってる」

恥じた。
ほんの数秒前までの自分は一体何を躊躇っていたのか。
愛なんて渡した分返ってくる物じゃないだろう。見返りが欲しくて焦がれたわけじゃない。ただ単純に笑った顔が可愛くて、好きだと思ったんだ。その献身の果てがこの部屋だ。最初からわかっていたじゃないか、なぁ兄弟。
少年の額に軽くキスをしてから暖炉の上に飾られている戦斧を手に取る。
握りを確かめて惚ける少年にニヤリと笑ってやった。
「僕は君が思っている以上に君のことを愛しているのさ」
鏡に斧を振りかざそうとした瞬間、───雷鳴が轟いた。
屋敷のすぐ横をバリバリと怒号をたてて稲光が走る。激しい地鳴りに屋敷の窓ガラスは全て衝撃で割れ、使用人たちは気を失った。
庭の木々は無残に裂け、火を灯し始めたものもある。
近くに住むものは反射的にしゃがみこみ、誰もが耳に手を当てた。それでもぐわんぐわんと脳を揺さぶるような凄まじい雷撃だった。


気が付いた時には床に伏していた。少年は居なくなっており、鏡も消えていた。
蝋燭は溶け切って燭台の周りを水溜りのように囲んでいる。立ち上がるとくらりと眩暈がした。
一気に吐き気が込み上げてきてそのまま何週間も床に伏せる羽目になった。
一旦病状が落ち着き正気を取り戻すと、日がな一日鏡のことばかりを考えた。
壊す事が出来たのかとも思ったがすぐさま自分で否定した。雷の衝撃で斧を振り下ろし切れなかったはずだ。
使用人が盗んだとは考えられなかった。屋敷の中で一番に目覚めたのが己だからだ。
自由を乞うたあの少年はどうなった?予想外の事とはいえ約束を守り切れなかった。あの時覚悟を決めきっていたのにこのザマだ。
もしも、もしもの想像上の話だ。
仮定でしかないが、鏡の所有者が変わっていたのなら?超自然的な作用によって持ち主が変わったとするならば、彼は今別の人間の視線に絶えず晒されているのか。
奴隷だと言っていた。あれは鏡の所有者の奴隷という意味だったのだ。
新しい所有者が邪な気持ちを彼に向けていたら?あの鏡には多少なりとも力があったはずだ。彼がなすがままにされているとしたら?趣味の悪い部屋で肩を抱き、怯えながら縮こまっていたら?
不愉快な、砂を噛むような気持ちが渦巻く。考えるだけで狂おしい。
一刻も早く助け出したいと焦れば焦るだけ快復が遅れた。
だが遂に外出し、歩き回れるほどに良くなった。
スティーブンはまずあの鏡を見つけた店へと足を運んだ。
別の商品を探すふりをして店内を見回したが、店主の嘲笑めいた顔を見て全てを悟られていると気づく。
嫌悪感を滲ませながら店主に話しかける。
以前ここで買った鏡が盗まれてね、ひどい落雷の日があっただろう?年老いた店主は心底驚いたふうに見せたが、それが見せかけだとすぐに見抜いた。
忌々しい年寄りは本心を隠しもしない態度なもので、苛立ちは募るばかりだった。
壊れるんじゃないかと心配になるほど力強く店の扉を閉め、八つ当たりにアーチを蹴り上げるとぐにゃりと鋼鉄で出来たそれは歪曲した。
袋小路に入り込んだ想いは彼を苦しめた。しかしそれを表情には出さず、方々を探しまわった。
露骨に聞いてまわりはしなかったがどれほど僅かな手掛かりでも逃すまいと聞き耳をたて、いつ見つけても良いようにと小さな銅鉄の槌をポケットに忍ばせた。
眼は血走り、今やスティーブンの中で少年との再会は二の次で、彼を自由へと解放するのが何よりも優先すべき事だ。
男は亡霊のように街を彷徨い歩き、少年がひどい目にあっていないかとそればかりを気にしていた。
あの時、稲妻が自身を打ち付けたとしても意識がなくなっていたとしても、最後の力を振り絞って鏡を割るべきだった。粉々に壊すべきだったのに。
あの少年が下卑た視線に晒されているのなら、震え怯えているのならばそれは全て自分に責任があるはずだと己を責めた。

ボールガウンが次々にふわりと舞う。
小気味良いステップを踏む人の輪から外れた別室で、喉を潤すためワインに口をつけた。
社交界は噂が飛び交う格好の場所だ。
1秒でも早く彼を解放してやろうと、情報を掴むためにありとあらゆる招待に応じた。成果は乏しいが、切羽詰まった彼はそうする他に道はなかったのだ。
休憩室では踊り飽きた婦人たちが軽食を片手に小声で語らっている。
その内容は他の家の嘲笑や会場に集まったうら若いデビュタント達の容姿についてなどで余りよい気分ではない。
何処に行っても休まる場がないと席を立とうとした時だった。

「ウォッチ勲功爵の御子息の、奇妙な病気の話を聞きましたか?」

ええ、勿論ですわ。もう一年以上も臥せっておられるんですって、私お会いしたのはずっと昔ですけどもの柔らかな優しい子だったでしょう?それがあのように恐ろしい病に見舞われるなんて。ここ数週間は快方に向かっていたと小耳に挟みましたけど。つい最近ですのよ、また激しい発作が起きて、前よりも悪くなってしまったそうで。あらお可哀想に、ところで、ねぇ、不思議な話がありますの。その御子息の病気についてですけどね。あくまでも噂ですけど、そう噂ですよ。詳しいことは聞いていないのですが、一年半ほど前に御子息がとある老女を怒らせたそうなの。そしてその女はね、わけのわからない言葉と罵声を浴びせて瞬く間に姿を消したそうですわ。比喩じゃありませんのよ、言葉通り、姿を消したとその場にいた女中が証言したそうよ。それから間も無くですわ、御子息が病に冒されたのは。ねぇ私その話の続きも知っているわ。まぁ、どういったお話ですの?病気に冒されたと同時に古い鏡が消えてしまったそうなのよ。とても美しい鏡で御子息の部屋にあって、いつも使っていたそうなの。
もしやと耳を澄ませたがここまで来て婦人達の声は更に低い囁き声になってしまい、いくら集中し傾けてもそれ以上聞く事は出来ない。
いっそ婦人達の好奇の目と引き換えに自らを晒す方が良かったかもしれないが、頭の中でカシカシと予想できる物事と噂の真偽を見定めていた為にそれは叶わなかった。
しかし勲功爵の名がわかっただけでも十分な成果だ。
帰宅後目にも留まらぬ速さで調べ上げれば少年の名前も、どこに住んでいるのかさえ知ることが出来た。
ウォッチ勲功爵の長男の名はレオナルド。
かねがね噂通り一年以上前から病に罹り寝たきりだという。喜ぶべきことに彼の住む場所はここからそう離れてはいない。
現在は山の中の自然豊かな場所にあるカントリーハウスで療養しているという。
思わず相好を崩した。まさかこんなにも近くにいるだなんて思いもしなかったのだ。
彼を縛る鏡を壊したとしても会えるかどうかの保証はなかったのだ。
会えずとも、彼を苦しませる憎むべき呪縛を解ければ、罪滅ぼしになれば良いとただ一心に願っていただけに、またとない吉報であった。
調子の良い事は続くものだと言ったのは誰だったか。
更に鏡に関係する知らせを受けたのは大学に再び行くようになってからすぐだった。

「シュナーベルを見かけた奴はいないか?」
一人が声を上げると皆次々に返した。
「知らないね」
「何だあいつは休学中じゃなかったのか?」
「そういえばしばらく見ていないな、剣術の稽古にも顔を出していない」
スティーブンもクラウスが次の手を指して来る前に顔を向けて言い放つ。
「レイピアの腕は僕とほぼ互角まで来たからな。稽古を受けに来なくても良いとでも思ってるのだろうさ」
最初に声をあげた学友は落胆し、この場に居ない男を詰った。
「全くどうしたというんだ。ようやく借りていた本を返したいと思っていたのに」
「屋敷まで行けば良いだろう」
「遠いのさ、大学に来てくれるのが一番助かるのに姿を全く見せない。一体何にうつつを抜かしているのやら」
いつの間にか黒のクイーンを取っていたクラウスも話の輪に入る。
「確かに、私が最後に彼を見かけたのは古物店から出てきたところだった。もう三週間も前だ」
次の指し手を考えあぐねていても御構い無しにクラウスはこう続けた。
「覚えているかな、君と一緒に鎧を見に行ってもらった店だ」
ゲームから意識が浮上する。
ほんの少しの暗示だけでも彼には十分なひらめきを与えた。
「へぇ、そう。彼がね」
鋭敏な瞳は既にチェス盤には目もくれていなかった。

ヴォルフ・フォン・シュナーベルは宮廷の中でも名の知れた奴で有名だった。それはもう、悪い意味でだ。
無鉄砲な性癖と荒々しく激しい気性で有名なのだ。端整な顔立ちをしているが、その化けの皮を剥いだ彼を慕う者は極僅かだ。
彼の噂を知っている母親達は娘らにいくら器量がよくとも付き合うなと口を酸っぱくして言い聞かせるほどだった。
あの男が鏡を持っているかもしれない。そう考えるだけでスティーブンにとっては生き地獄にも等しい。
とは言っても確実とは言えないのだから性急に、暴力的な手段に訴えかけるのは得策ではないと判断する。
面白くない気持ちなのは確かだが、男には鏡を壊す機会さえあればそれだけでよかった。
一刻も早く少年を自由に。
さまざまな策を思い巡らせたがシュナーベルとは義務的に稽古をつけていただけで特に接点もなく、これといって決め手になるものは無い。
その為足を踏み鳴らしては逡巡する日々が数日続いた。

ところがついにある晩、ヴォルフ・フォン・シュナーベルの家の前を通ったその時だ。
いつになく煌々と窓が光り輝いていることに気づいた。
長らくそれを眺めていると着飾った客たちが次々にシュナーベルの家へと入って行くのを見た。
急ぎ帰宅し夜会服に身を包んだスティーブンは誰に見咎められることもなくまんまと客に紛れて家へと入り込んだ。
シュナーベル夫人は、はて招待状をスターフェイズ家にも送ったかと頭を捻ったが、物腰も良く貴公子然としたその姿に考えるのを放棄した。
美形は得であると伺わせる一幕である。

忙しそうにしているハウスメイドの一人を呼び止めにっこりと微笑みかける。
メイドは顔を赤らめながらも如何しましたでしょうかと恭しく用件を聞いた。
「シュナーベル、いや息子の方だな。ヴォルフに用事があってね、彼は今何処に?」
「ヴォルフ様なら杖を新調しに出掛けておりますけども、時間までには戻って来なさるはずですわ」
居ないのならそれはそれで好都合であったが、パーティーが始まる時間はもうすぐだ。
「それなら仕方ない、と言いたいところだが急ぎの件でね。もし宜しければ彼の部屋で待っていたい。部屋まで案内してくれるかい?」
「ええ、ええ!もちろんです!」
メイドに扉の前まで案内させると感謝を伝えながらチップを渡した。
彼女がふらふらと浮かれるように階段を下って行くのを確認してから扉を開ける。
部屋の装いはスティーブンですら顔を顰めるようなものだった。
基本のセンスは悪くない、が、そこかしこに掛けられている絵は気持ちが塞ぐような陰鬱としたものばかりだ。
陵虐が趣味なのかと疑うような絵ばかりで良くそれだけを集めたものだ。
もしかすると描かせたのかもしれない。どちらにせよ趣味が悪い。
無造作に置かれた剣は手入れを怠っているのか錆び付いたものばかりだ。
重く暗い雰囲気の部屋は明かりをつけても薄暗い。
カツカツと機敏に足音を立てながら鏡を探す。あるはずだ、しかしどこに。
怪しげなところはよく観察する。
不意に重厚な本棚へと目を向けた。何処か違和感がある。
よくよく見れば本棚の間に継ぎ目が見えた。その部分だけ、薄く縦にズレがある。
試しに力を入れて押すと鈍い音を立てながら棚は動き出す。
あとは迷わず一気に力を込めた。
かすかに埃を舞い上げながらそこは小さな部屋へと続く隠し扉になっている。
灯の一つもない、暗い小さな部屋でも夜目に慣れた彼には即座に分かった。
鏡だ!
間違いなく、あの日目の前から消え失せた鏡がそこに掛けられている!
ポケットの中で忍ばせていた槌をぎゅうと握った。その時だ。
「そこに居るのは誰だ!私の部屋への勝手な入室は誰であろうと許さんぞ!」
荒々しく扉は開け放たれ、部屋の主人ヴォルフ・フォン・シュナーベルの帰宅を知らせた。
暴かれた小部屋に佇む男を視界に捉えると血を滾らせ、ヒステリックな叫び声と共に立て掛けられた剣を手にした。
我を忘れたシュナーベルの怒号は広間に流れ始めた音楽に揉み消された。

軽快な音楽の中で笑う人々にとって、よもやその屋敷の中で血に濡れ倒れ伏している男がいるなど誰も気がつかない。
血を拭い、隠し扉を元の位置に戻せば尚更。陰惨な出来事があったなど分かりもしない。
外はポツリポツリと雨の兆しを見せていた。


街から少しばかり離れた山の中、小振りなカントリーハウスでは一人の少年がぐったりと横たわっていた。
顔は青白く不健康で、ほっそりとやせ細った腕は胸の上で組まれている。
微かに上下する胸だけが彼が生きているとわかる証だった。
彼のそばに座っている男女二人は、哀しみを押し殺すように静かな声で話していた。
「もう何時間もこのままで、そう長くはないかもしれないってお医者様が」
彼女の声は震えていた。彼女と良く似た顔つきの少年は不安げな彼女を慰めるように柔らかい声で大丈夫だと繰り返す。
「でも、本当に危ないのならミシェーラにも知らせるべきだわ。マクラクラン家からここまで三日はかかるもの」
「そうだね、でも悪い意味で呼んじゃいけないよ。レオが目を覚ますのを見るためにだ」
「ねぇ。それ本気で言ってる!?」
少女は立ち上がり、ワナワナと拳を震わせたが結局項垂れるようにして椅子に座った。
彼女はくぐもった声でまくし立てる。
「ここ数週間でよ!?どれだけやせ細ったと思ってるの、こんなのおかしい!普通の病気じゃないわ!噂の老婆のせいに決まってる。それにね、昏睡状態の間に何かを見ているようなのよ。でも目が覚めた時にはどうしたって聞き出せない」
「それは・・・」
少年は考え込むよう口元に手を当てた。
「ホワイト、昏睡の中で何かしら喋ったりしていなかった?」
「私は聞いたことはないけど、使用人達が話してたわ。時々レオが居なくなるって」
「人目を盗んで外に抜け出してたって?」
「違うわ」
即答だ。
「ほんの数十分の間だけ ”消える” そうなの。また姿が現れたと思ったら目覚めてる。なのに何があったか口を割らないって。レオの体調が余計悪化した日があったでしょ。そう、ひどい雷の日だった。あの時は疲れ果てて、恐怖で真っ青な顔をしていたのに誰にも、何も話さなかった」
「呪いの誓約だ」
少年は部屋をぐるぐると歩き回り、不自然に空間が空いた壁を睨みつける。
「噂の鏡と関係があるんじゃないのかな」
「そうよ」
二人はあーでもないこうでもないと、今では廃業したが術師の末裔らしく持てる知識をもって話し合う。
少々興奮気味に話し合っていたので話し声は段々と声高になり、寝台に埋まる少年の微かに漏れた声に気づくのが遅くなった。
横たわった少年の唇から、ほんの微かに声が発せられる。
しかし少年の声は掠れ、呼吸に混ざる。
「レオ!」
少女は声をかけ、喘ぐ少年の手を強く握った。反対側にいた少年もそれに倣った。
二、三度声を絞り出そうとして、息だけが吐き出される。
それでもと言葉を出そうとする努力のあと、彼の口から「やめろ!」と言う悲痛な言葉が飛び出した。
手を握っていた二人はビクリと震えたが、それもすぐ静かになった彼を心配しさらに固く握り締めた。
静寂の中、木々を濡らす雨音だけが響く。
そしてついに時が来た。
少年は寝台から勢いよく起き上がると、普段は閉じられた大きな目をこれでもかと見開いた。
「どうしよう!僕のせいだ、あの人のおかげだ。なのに、ああどうすればいい!?」
ガラガラの大声で叫んだ途端すすり泣き始めた少年を少女はポカンとした表情で見つめていたが、我に返ると彼を抱きしめ背を撫でる。
「ブラック!」
「うん分かってる!」
ブラックと呼ばれた少年は部屋を出て行くと手に水差しを持ってすぐさま戻って来た。
蒼白い顔をした少年に水を渡し、見舞いの品である白桃を手早く剥いて口に放った。
少年───レオナルドの頬には赤みが戻り、ガラガラに枯れていた声は幾分かマシになる。
立ち上がったレオは嬉しさと不安を混ぜ合わせた様子で部屋を行き来し、二人の男女、マクベス兄妹を呆然とさせた。
「あの人の所へ行かないと、行かなきゃ駄目だ。きっとまた後悔する!」
寝間着のまま家を飛び出そうとする彼を使用人合わせて4人がかりで捕まえて、なんとか宥めすかしわけを聞いた。

奇妙な病はマクベス兄妹が思った通り、術師の呪いだった。
それはウォッチ家が代々引き継ぐ美しい鏡を媒介としてレオを苦しめ続けていた。
その中で、一人だけレオナルドに優しくしてくれた人が居たのだと言う。
青年は鏡を壊してくれると約束したが運悪く落雷が落ちた。
部屋に描かれた魔術も捻れてしまい、いつの間にか店に戻されていたという。
鏡は新たな持ち主の元へと渡り絶望感と疲弊、恐怖から体調は悪くなる一方だったのだ。
そしてつい先ほど、鏡の中からあの青年を見たと興奮気味に、しかし悲しげにレオは言った。約束を果たすために彼は鏡を探してくれていた。そればかりか見つけ出してくれた!
だというのに少年は落ち込み、膝の上で握り締めていた拳は震えている。
「あの人が刺されたところを見たんだ!それなのに自身に構わず鏡を割ってくれた。だから今僕はこうして自由に話せるのに」
だから会いに行かないといけない。
何度も訴えかける彼に少女は折れた。
「分かったわ、それなら急いで会いに行きましょう。馬車なら私達が乗って来たものを使えば良いわ!その代わり一緒について行くけど文句なんてある訳ないわよね?」
レオは首が取れるのではないかと思うほどに激しく上下に振った。
ほんの少しの待ち時間すら惜しむ様子の彼にブラックは上着を掛けてやってから地図を開く。
「で、どこに行けば良いの?」
少年はまたも真っ青になり、冷や汗をだらだらとかきだす。
「わ、わかんない」
「「はぁ!?」」
青筋を立てながらレオを叱咤するホワイトに怯えつつ、見た景色、状況を聞き出して可能性がある街や家を絞り込んだ。
青年は立派な夜会服に身を包んでいた。今夜舞踏会を開いている近場の家は数軒だけと言えども屋敷間の距離はそれなりにある。
虱潰しになるし、もしかしたらもっと遠くの地かもしれないよ。君の体調だって全快した訳じゃない。でも行くんだね?
レオは力強く頷いて二人を見た。
マクベス兄弟はにぃっとそっくりに笑うと馬車へ彼を乱雑に詰め込んだ。

暗い闇のパラつく小雨の中、猛然と駆けている馬車は邸に向かう途中であった。
街を征く人々が手に持つランプの灯が長く線を引く。
レオナルドは上着の袖ごとぎゅうと握り締め、爛々とした瞳を外に向けていた。
少年の瞳は普通の人よりもずっと、どこまでも遠くを見る事が出来た。
馬車が川にかかる橋の横を通り過ぎた時だ。

「止めて!」
叫んだ。
それでも急に止まることは出来ないのだから、無理やり扉をこじ開けて未だ動きを止めない馬車から転がり落ちる。
驚いて声も出ない二人を置き去りにし、橋の袂まで急ぐ。
病み上がりの体はキシキシと痛んだがそれでも構わずに走った。
橋に辿り着く頃にはついに耐え切れずに大きく噎せて肺を痛ぶらせた。呼吸を落ち着かせ、探るように目を細めた。

見間違いの筈ではない。恩人を、彼を見間違うはずがない。

雨雲から月が顔を覗かせる。天頂近くまで昇り、真っ黒な橋を明るく照らし出す。
暗闇に潜む様にして男が居た。
傘もささずに雨にうたれ、彼の黒いコートはずっしりと重みを増している。
レオは奇声ともつかない声をあげて男の元へと駆け寄った。
男の顔色は悪く、震えていたがそれでも優しげに微笑んだ。
「少年。鏡は壊した。君は自由になれたか?あの後そればかりが気がかりで。罪滅ぼしになっただろうか」
レオは何度も何度も頷いてから男に縋った。
「はい、自由になりました。貴方のおかげです!あの時抱いた想いは偽物なんかじゃなかった!僕は貴方の真心に報いたい!だから貴方の所へ行くと決めたんだ!」
言葉は途絶えがちに、しかしハッキリと口にした。それは大いに男を喜ばせた。
「僕もだ」
たまらずに冷えた身体で少年を抱き寄せた。
力加減なんてものを全く考慮に入れなかった為、逆に自身の刺された傷口が開き、痛みに思わず呻いた。
少年は驚き、脇腹から滴る血を視界に入れると顔を歪める。
「大丈夫だよ、かすり傷だ」
「僕の知ってるかすり傷じゃない!」
「じゃあ君の知り得ないかすり傷だ」
狼狽える少年の頬にキスをした。
彼は納得していなかったがスティーブンからすれば本当にかすり傷だった。
最初の一刀以外は全て避けた。致命症にならなければそれでいい。
致命的な傷を受けたのはむしろ相手の方だった。
「レオ、僕はね。君を愛させて欲しいし愛し返されたいんだ。許してくれる?」
あの時の様に少年の前に跪いた。仕立ての良いコートの裾が汚れたが今更だ。
「だから最初から許しを請われるようなことなんて何も無いって言ってるじゃないですか」
呆れたように言う少年に知っているよと笑った。
「言葉が欲しいんですか?」
「欲しいね。是非とも欲しい」
少年は顔を真っ赤にさせて、冷たい指先で顔を覆う。
それから息を飲み込み決意の眼差しをスティーブンに向けた。
スティーブンは鼻先に餌を置かれ、飼い主からのyesを待つ犬の気分だった。
「許します。もうまどろっこしいのは嫌なんで、全部。貴方から僕に与えられるもの全てを許します」
「よし来た!」
レオナルドが言い終わるが早いか、彼の腕を引き寄せ貪るように唇に食らいつく。
呪いは解けた。童話の幕は閉じる。雨は降りやみ、月は恋人たちをまばゆいばかりに照らし出した。

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