スティレオ←モブ

彼の箱庭

男は爆発が起きた方向に目を向けて、そして息を飲んだ。
まさか、と動揺し、確認し、視線の先の人間がどういった存在なのかを理解した。理解した途端にはらわたが煮えくり返った。

見たくない物を無理矢理見せつけられた。厳重に鍵を掛け、閉じていた箱を開かされた。数百年ぶりの憎悪に手が震える。この怒りは根が深過ぎた。
剣呑な視線はふと、別の人間に向けられた。それは憎悪の隣に居た。
爆風でボサボサになった頭を掻き回されて何やら喚いている。あの子供だと直感した。
あの子はきっと自分のせいで可哀想な事になる。
今から始める行動を止める気は一切無いのに男は哀れんだ。


「こんばんは。良い夜だね」
声に振り返った瞬間レオナルドは真っ青な目を見開いてしまった。
男は紅い羽の様なオーラを持っていた。ここで逃げ出さなかったのはレオナルドの落ち度であったが致し方無い面もあった。
話しかけて来た男の顔は余りにも見知ったものだった。
違いは瞳の色と頬の傷。本人よりもやや低い声。瞬時に別人であると理解するのは難しかった。
それほど瓜二つであった。
「スティーブンさん?」
怪訝な声で問うと男は首を振る。
「違うよ」
一歩、また一歩と男は近づき手を取った。ぞっとするほど冷たい手は死人のようだった。
「俺の名前にスティーブンなんて文字は入ってないだろ。それよりも驚いたなぁ、その眼は神々の義眼?道理で消える奴等が増えたわけだ」
サァッと一気に血の気が引いた。こいつはスティーブンさんじゃない。
赤の他人か、姿を装っているか。分かっている事は吸血鬼であることだけ。
手を振り払おうとしてもビクともしない。男は楽しげに笑ってる。
せめてライブラの誰かに連絡を。命の手綱を。ポッケの中にあるスマホに空いている方の手を忍ばせる。
「でも俺の目的はその眼じゃない」
バキンと割れた。動きを眼で追えはするが身体は追いつかない。心臓が早鐘を打つ。誰か、誰か。
目まぐるしく周囲を見回すが知り合いは誰も居ない。孤立無援。冷や汗が止まらない。
真っ赤なサラマンダーの瞳は満足そうに眼を細めた。
「自慢の箱庭に招待しよう、少年」
怯えた子供は蝙蝠に覆われた。


身ぐるみを全て剥がされた。
新しく着せられた白いコットンシャツは清涼な香りがして顔を顰める。
連れて行かれた先で殺されるとか、義眼を抉られるとか、拷問されるとか、そういった恐ろしい想像をしていた分拍子抜けしてしまった。それでも安心は出来ない。
確かに義眼が目的じゃない、招待すると男は言ったけど丸々信じられる訳が無い。しかし男は言葉通りだった。
眼をどうこうされる事も無く、太陽が輝く花畑の中にポツンと佇む小さな家に招待された。
招待より拉致と言ってしかるべきだが客として十分にもてなされているので何とも言えない。
連れて来られて真っ先にここは何処だと出来る範囲を眼で探ったが本当に花と家しかなかった。どこまでも延々と続く花畑で終わりが見えない。本当にそれしか無いのだ。
動物はいた。でも人が居ない。HLじゃない事は嫌でも分かる。
スマホを持って来た所で圏外だったかもしれない。この場所は太陽が昇っている。夜じゃない。衛星が捉える事が出来る範囲に居ないのでは無いかとまで考えた。
涙目のレオナルドを男はひん剥き、狭い浴槽へと放り込んだ。
全裸での逃走は避けたい。と言うより逃げ場が無い。どんなに逃げ出す方法を考えても解決策なんて出ては来ない。
おまけに長湯ですっかりのぼせた身体を懇切丁寧に拭かれて上記に至る。
レオナルドの頭の中にはひたすらに「なんで?」と疑問が浮かびっ放しだ。
それを相手に直接聞けるほど距離を縮めたくはない。今の所害する気配が無くとも男は吸血鬼なのだ。
初めてその存在を知った時の事を思い出す。 スティーブンさんもK・Kさんも血だらけで、満身創痍だった。なのに相手の女は平然として、笑う余裕すらあった。
恐ろしい存在だ。この男も同種であるのだ。

部屋の隅に縮こまり、男の一挙一動をじっと見つめる様は拾われて来たばかりの野良猫と大差なかった。
「そう警戒してくれるなよ」
「無理です」
「チッチッチッチ」舌を鳴らし、指先でおいでおいでと促す。
「・・・・」
なおのこと警戒心を深めたレオナルドに男はやれやれと深い溜息をついた。
何なんだその反応は。吸血鬼に攫われて警戒しないなんて有り得ない。馬鹿だアホだ間抜けだと言われ続けているがそこまで馬鹿じゃない。
「そんなに怖がらなくったって良いじゃないか。俺は君に何もひどい事はしてないぜ?」
「拉致られました」
「仕方ないだろ」
「スマホも壊されました」
「それも仕方ない」
「服を引っぺがされた…」
「…汚かったんだよ。仕方ないだろ」
悪びれもせず答える男は見た目も相待って上司(怖い方)にしか見えない。複雑だ。
「隅っこで膝を抱えていたって助けは来ないんだ。眼を潰すつもりも殺すつもりもない。俺と話さないか?美味しいコーヒーにミルクと砂糖も付けてやるから」男は困った顔でプランジャーポットを持ち上げる。
似過ぎて駄目だ。5日前に豆が切れたとしょんぼり呟いていた顔と同じだ。
強い拒絶の気持ちを持たなければ絆されそうで、改めて気を引き締める。
「要りません」
「ケーキもあるよ」
「食べたくないです」
「毒なんて無いさ」
「嫌です」
「君はコミュニケーションが下手なのか?そこら辺にいる小鳥の方がまだ愛想もあるし話も分かる」
タイミング良くそうだそうだとでも言うように外からチチチと鳴き声が聞こえた。
「ほらね」と男は笑った。
悪かったな鳥類以下のコミュニケーション能力で。いや別にコミュ障じゃ無いし、友達沢山いるし、むしろ積極的な方だし。男の方に問題があるのだ。

黙ったままのレオナルドに「ああもう埒があかないな」と男は痺れを切らした。
「君達が今まで遭遇した吸血鬼がどういった者なのかは知らないが、少なくとも俺が君に嫌悪も殺意も持ってないことくらい理解してんだろ?傷つけるのも殺すのも声を掛けた時から出来たんだ。お茶に付き合うくらいの譲歩はしてくれ、人間じゃ無いから傷付かないなんて事はない。かつては、…大昔には俺だって人間であったし今でもそれなりに人間だった頃の感覚を保っているつもりだ。あまり素気無くされては悲しい。俺としては懇切丁寧に優しく扱ったつもりだよ。何が怖い?何が不安だ?言ってみろよ」
まくし立てるように言われて小さく跳ねた。本当に上司にお叱りを受けている気分だ。
「そ、れは薄々理解してます、けど。怖いもんは怖いっすよ!これは怖くない熊だって言われてものこのこ近づく人は居ないでしょ!」
「俺は熊じゃないぞ」
「熊よりこえぇよ!」思わず突っ込んだ。
何だ急に活きが良いな。ふむ、と腕を組む男の方がコミュニケーションが下手だ。絶対に。

あーもう!頭を掻き乱して喚いた。言ってみろと言い出したのは彼なのだ。
「あんったなぁ!急に拉致られて怖がらない人なんか居ないっつの!あんな、振り返ったらスティーブンさんに瓜二つの吸血鬼で!助けを求めようってスマホに手を伸ばしたら壊されるし!夜だったのにここは陽が昇って何だかおかしいし!殺す訳でもなくもてなされてるのだって何考えてんのか訳わかんないし!てかほんと何でスティーブンさんと同じ姿してるんですか!?それが一番意味わかんねぇし怖くて不安ですよぼかぁ!」
ゼェゼェと肩で息をする。後半はほぼ無呼吸だった。酸素を求めて胸が大きく上下する。
「なるほど」
「なるほどじゃない!ですよ、も、もう、う。くぅ、ひっ…うあああああぁぁっ!」
突然泣き崩れたレオナルドに男はポカンと口を開いた。
徐々に顔色を変えて慌てて駆け寄って来る。涙を拭う為に差し出されたタオルをイヤイヤと突っぱねると男は当惑した。
男はレオナルドが泣き出した理由に見当が付かないのだろう。何が人間だった頃の感覚を保ってるだ。解ってない。全然、丸切り解っちゃいない。
恐怖と不安と緊張の糸をピンと張り続けていたのだ。肉食動物の檻の中に兎を放り込んでみろ。襲われなくともストレスで死ぬぞ。
男がどれだけ無害だと主張したところでこの場は彼の領域なのだ。
ライブラと完全に切り離された。助けには誰も来ない、逃げ出せもしない。
目的が分からない、知った顔は中身が違う。青とは真逆の赤。血の赤だ。
えっえっとしゃっくりをあげるレオナルドを男は黙ってじっと見つめている。
赤銅よりも鮮やかで深い真っ赤な瞳はやはり人では無い恐ろしさを秘めている。
支えられ、触れた部分は鳥肌と震えが止まらない。せめて知らない顔なら幾分かマシだったのに。
「その顔、いやです、やだっ」
何でスティーブンさんとおんなじ顔にするんですか。変えて、やだ。
ゆるゆると力の入らない腕で男を押し退けようとする。形ばかりのそれを見て男は少し距離をあけた。
「生まれ持った容姿は変えれない、それに俺は姿を変えるのが苦手だ」
はっとして顔を上げる。
「双子?」
無いなと分かっていてもつい口から出た。違うよと苦笑された。
「俺が人間だった頃にはシェイクスピアの新作がロンドン中で大流行してた」
それは何年前の話だ。言いたい事は理解出来るが生憎と歴史には疎い。
「赤の他人には思えないです」クローンと言われる方が説得力がある。
彼はそうだなぁと唸ってから「もしかすると俺の子孫かもしれない」と、惚けるように言った。
「ま、仮に子孫だとしても俺の血なんて無いに等しいだろうね。世界に似た人間が三人は居るというし。だから君には悪いがこの顔が嫌でも俺にはどうにも出来ない」
頷いた。偶然の産物なら誰にもどうしようもない。
「で、後は君を連れ去った理由だっけ?」
「教えてくれるんですか」
目を皿のようにしてパチリと瞬かせた。
「分からないのは不安で怖いと言ったのは君だ。泣き出した君を見てすっかり自分が失念していた事に気付いた。俺が人間らしいと言っても化け物には変わりない。他の奴らとは違うと矜恃た所で血を奪う時点で同じ吸血鬼、化け物だって。うん、俺は化け物で怪物で、君に怖がるなと言うのが無理な話だった。すまない」

頭を下げた男に思わず固まる。
ここまで腰を折った態度を示されるとどうして良いか分からない。
レオナルドの知る吸血鬼よりずっと人間味を感じる。見た目のせいもきっとある。大いにある。
どうしよう、そのまま表情に出ていたらしい。「そのままでいいよ。どうもしなくていい。無理に親しくして欲しい訳じゃない」
だからと硬化した物腰で過ごすのも…それはあんまりじゃないかと良心が訴えた。
怖がらない、のも難しい。経験と知識が緊急アラームを止めるのはまずいと言っている。どうであれ目の前の男は吸血鬼だ。
震えたままの手で彼の指先、小指の先をちょんと握る事にした。これが限界値だ。
恐怖の色は隠しきれないまでもレオナルドの精一杯の譲歩に男はホッと安堵し表情を緩めた。
「話をする前に君は顔を洗う必要があるな。その間にコーヒーも淹れ直そう。飲むのも食べるのも強制はしないがテーブルには並べさせてくれ、同じ席に着いているのに一人で食べるのは気まずいんだ」
長く生きても、吸血鬼になっても、そうした感覚は変わらなくてね。
照れ臭そうに笑う男はやはりスティーブンにそっくりで、ついつい頷いてしまった。


話の前に君の名前を知りたいと男は言った。
名前を明かすのはどうかと考えている間に先に名乗られた。
何の因果か吸血鬼の男の名前はアラン。ファミリーネームはブラックだそうだ。
「アラン、さん?」疑問形にもなる。
どっかの誰かさんのミドルネームもそうであったし、何より男の頭上に浮かぶ文字と名前が一致しない。
「親から付けられた名前はね。君が見ているのは裏の方。真名っていうのは分かるか?生まれながらにして誰もが持つ名前。通常であれば本人すら一生知ることの無い名前、それが俺達の諱名だ」
諱名を読めるように勉強した際教わったような気もするが正直うろ覚えだった。「ええ、まぁ、はい」とぎこちなく返事をする。
「吸血鬼は諱名さえ読まれなければ無敵だ。でも力を得るには代わりにリスクを持たなければいけない。昔からの決まり事だよ、妖精の名前当ては有名だな。名前が弱点だが名前を隠しきれない性質を持っている。同じように吸血鬼は諱名が表に露出している。普通の人間には見えないが…っと話が逸れたな。こんな話より君の名前だ、俺は表も裏も教えた。今度は君の番だよ」
名乗ってしまって良いのだろうか。
躊躇っていると「ファーストネームだけでいい、それも難しいなら愛称でも良い」と促された。それならと名乗る。
「レオナルドです。皆からはレオと」
「レオ、レオ、レオナルド。うん。いいね、ありがとう。俺の事はアランと、馴染まない名前よりも馴染んだ名前でレオには呼ばれたい」
キョトンと首を傾げる。
脅威のないレオナルドと言えども諱名で呼ばれるのは忌避するものなのだろうか。
「そうじゃない。諱名を声に出されたくないのもあるが、一番は俺が人の名前で呼ばれたいだけなんだ」
それはどういった意味か問う前にコーヒーがサーブされた。良い香りがする。
オマケにモンブランまで出された。艶々とした栗が乗っている。アランのケーキはピスタチオらしい。
現金なことにくぅと腹が鳴る。あれだけ拒絶していた癖に腹は正直だ。
夕食はまだ食べていなかった訳で、食べ物に罪は無いわけで。
ぱくりと口にすると程よい甘さで美味しい。コーヒーもひとくち。カッと眼を見開く。
「うま…何この…ベリー系の広がる風味と奥深い味」
レオナルドの出身地であるポートランドはコーヒーの消費が高い。HLでは節約のために泥みたいなインスタントコーヒーを日々飲んでいるが決して味音痴では無い。 食に大雑把なのは単に面倒くさがりなだけだ。手間暇を惜しむタイプなだけ。
妹からすれば惜まないでよと叱咤されるのは間違いない。
「良い豆だろ。今年一番の出来の所から仕入れたんだ」
「こんなに美味しいもん飲めんのに鉄臭い血を飲むのは理解に苦しみます」嫌味でなく本音だ。
「全くだよ。出来る事なら血でなくコーヒーが良い」
アランはグッと一気に飲み干した。
「さて、理由をと言ったな。簡潔に言えば八つ当たりの衝動だ」
やつあたり、呟くと彼は頷いた。
「僕に対してですか?」
「いいや、俺と同じ顔の男。君が言う”スティーブンさん”に対してだ」
「赤の他人だって」
「そうだね、赤の他人。他人の空似だ。ただ、俺ですら驚くくらいに似ている。だから駄目だった」
意味がわからない。他人なのにというのもそうだし、八つ当たりならレオナルドを攫うのはお門違いでは無いだろうか。
「結果は衝動だが衝動に至るまでの過程は長くてね。おおよそ五百年。始まりは霧に烟る夜だった」


首から滴る血を抑えながら壁にもたれるようにして回廊を進む。
アランは混乱していた。寝室に招いた女は化け物だった。
仲間にするなら美しい者がいいわ。鈴の音を転がす声で耳元で囁いた。最悪にもアランは女の御眼鏡にかなったらしい。
噛まれた痛みと共に身体の中身を書き換えられた。
飢餓感が拭えずに卓上の果実と酒を煽るが満たされない。求めているのはこれじゃない。
息を切らしながら飢餓感の正体もわからず屋敷を彷徨う。
「こんな夜更けにどうなさいましたか?」正面には蝋燭を持った人間が立っていた。
火の明かりは小さく相手の表情は伺えない。
グッと飢餓が増した。喉の奥がカラカラだ。飲み込む唾すらなかったがゴクリと喉を鳴らした。
生きた人間の、新鮮な血が必要なのだ。
その時は正常な思考など一切出来なかった。ひたすら渇いていた。
頭がすっと冴えた頃には側に皮のような物が落ちていた。人間から水分がなくなればこうなるのか、知りたくなかったな。
最初に殺した人間が女だったのか男だったのか、家族か使用人かも覚えていない。
覚えていた所で既に手遅れなのだ。

吸血鬼にもコミュニティは存在したが繋がりは浅かった。
アランの様に望まずして転化した者は少なく、殆どが自ら望んでその輪の中に入った。
力が欲しい、老いず死なず、享楽を永遠に貪りたい。そうした輩は我が強く横の繋がりなど必要としないのだ。
それでも繋がりが完全に途切れないのは時折滅殺される者が居るせいだろう。吸血鬼を屠る事を信条にした奴らが居るようだ。
殺してくれるのなら願ってもない。そう思って様子を見たがあれは不自由になるだけで死ではなかった。
身動きが取れず何年も思考だけが生きるのなら今のままで良い。
気まぐれに集まっては情報を交換するが、滅殺されるのは弱い者ばかりと判ると集まりも次第に無くなった。
他人事だ。家畜に御されるのならそれまでと言う事だろう。

地下は傲慢で下賎な吸血鬼共、地上は血を帯びた革命の機運が俄かに高まっている。
ふと、自分だけの静かな箱庭が欲しくなった。

吸血鬼としての生を楽しめるほど吹っ切れることも出来ず、造り変えられた身では人に馴染むことも出来ない。
いつだったか自分と同じ様に意図せず転化させられた男がいた。
「私は私の世界で生きる事にする。君も疲れたらそうすると良い」
男から渡された箱庭の術式は何処にしまっていただろう。
血脈門を開き、専用書庫から個人のリストを取り出す。
「お好みにカスタム頂けますがお客様は如何しましょうか」従僕には常に太陽が輝いて一人住めるスペースがあれば何でも良いと注文を付けた。夕刻には形成されるとのことだ。
住居を構えるならそれなりの暮らしにしよう。街に出ると随分と物価が高騰してた。
先先代からの浪費のツケ、農作物の不作による収穫量の減少と爆発的に増え続ける人口に均等が取れなくなったようだ。
身なりの良い服を着たアランにゴロツキ共の値踏みした視線が突き刺さる。飢えたものは富んだものから奪うしかないのだろう。そういえば随分と血を飲んでいない。そろそろ飲まなければ制御が効かなくなる。
汚れているなら男より女の方がまだ抵抗感が少ないが中身は変わらない。薄暗い路地裏に入ると四、五人の男達も後に続く。
帰りにコーヒーハウスへ口直しに寄らなきゃならんなと頬をかいた。

術式の鍵を回す。
注文した通り、害にはならぬ紛い物の太陽と小さな家。
一面の花畑は随分とメルヘンなオプションだが荒涼とした大地にされるよりもマシだろう。
地上では連鎖するように各国で革命と争いが起きている。喧騒が落ち着くまでこの箱庭で過ごそう。
静かな箱庭で人間の時と同じように生活する。むしろ人であった時よりも慎んだ生活だ。
そうした日々を繰り返すとこの身は人間とさして変わらないのでは無いかと思えてくる。俺はあいつらとは違う。化け物などでは無いと。
それでも血の渇望は無くならない。
箱庭を抜け出し、意識の無い人間の血を啜る度にやはり自分は化け物なのだと突きつけられ、思い知らされる。
吸血鬼は死ねない。それは絶対で、餓死など出来ないというのはとうの昔に経験した。
飢えが過ぎると意識の無いうちに人を襲う。足りない分を満たすように血の一滴残らず吸い上げ殺してしまう。
それなら適量を各人から奪う方が双方苦しまずに済む。

何方にも交われないのは苦しい。望まぬ孤独は暗く重い。
大抵の吸血鬼は人間を家畜だ食料だと馬鹿にする。力が無いから群れでしか生きられないと笑う。
逆だなとアランは思った。
力を持ち過ぎて群れに混ざれないのだ。自分達だって元は群れで生きていた人間だ。上位も下位も一人の例外もなくだ。
最初の数人、神性存在に遺伝子をこねくり回され人間の理から弾かれた。爪弾きにされたから一人でしか生きられない。
群れで生きるすべを持てなくなった。それなのに孤独は拭えない。
だから気に入った人間を転化させたり、知性を持った異形を作り出す輩が出てくるのだろう。
孤独な生き物は自分だけだというのを紛らわす為に自身と同じ異物を増やすのだ。俺もその増やされた一人だろう。
同じ轍を踏みたくはない。
異物であると自覚するのは決して混じれない人間達を見るせいだ。過去の自分を、人であった自分を見るからだ。本来なら当たり前に得たはずの人としての生を見るからだ。選ぶ余地もなく奪われた怒りと嫉妬を見るからだ。
見なければ良い。閉じれば良い。他者と比べるから余計苦しいんだ。
この箱庭は実にアランに適している。一人になれる。閉じてしまえば激情は熱を失って沈黙する。
残るのは安穏とした日々だ。
それで良い。

崩落と再生、異界との融合は自分たちの様な者にもそれなりに衝撃が走った。
随分と面白いことになっている。あれは良い、飽きが来ない。
少しばかりの興味を持って話題の都市に行ってみればなるほど面白いことになっている。街を歩けばそれなりに同種が居た。異界人に化けている者もいる。
今までアランの知っていた喧騒というものを三乗してスパイスと訳の分からない宇宙物質と虹色のスライムを掻き混ぜた様な街だ。騒がしいどころではなく、鬱屈した思考をする暇もない。
自分がコレなのだ、他の者は更に面白くて仕方がないだろう。

行き交う情報は忙しない。エルダー級が一人やられたとも聞いた。まさかとも思った。
吸血鬼を屠る志を持った人々はいつの間にやら団結し、牙狩りと言う名の組織として活動している様だ。
人間の進化は侮れない。立場上、敵と言うべきなのだろうがアランは誇らしかった。
エルダー級の吸血鬼だ、きっと慢心していたのかもしれない。それでも、仕留めたのだ。
とった首はでかかっただろう。これぞ群れの恐ろしさだ。
人にとっても彼らは超人だろうが、どことなく人間側の代表の様に思っていた。相対する存在だからだろう。
浮足立つ気分だった。


「それがどうして衝動的な八つ当たりに繋がるんですか」
さっぱりわからない。本当に、てんで分かりゃしない。
レオナルドの疑問を余所に男はハハと笑った。
「だってムカつくだろ。理論じゃなく、感情的にさ」
んんん〜?よく呑み込めないでいる。わからん。首を傾げ過ぎて椅子から落ちそうだ。
「自分と全く同じ見た目の人間がいて、吸血鬼を狩る側に属している。彼が普通の会社員であったならまだ良かったかもしれない。だが同じ顔の人間が立っていた場所は特別な場所だった。そこに違った人生を歩む自分を見出さないわけがない。対極だから尚更だ。あの日吸血鬼に目を付けられさえしなければ似た様な立場に居たかもしれない。何故俺が化け物で、あいつがヒーローなのか。惨めったらしい現実をまざまざと見せ付けられるのは鼻につく。ずっと必死こいて見ないふりをしていたものを引っ張り出され眼前に突き出されてみろ」
「わざとじゃない!それは「それは余りにも理不尽だって?そうだよ、俺の一方的な怒りと嫉妬と憎しみだ。彼に非が無いことは百も承知している。頭では分かってるが感情は暴走する。」
爛々と光りだすアランの瞳は憎悪に燃えていた。
「彼を苦しめるにはどうすれば良いかなと考えたんだ。理不尽な怒りだが殺すほど獣にはなり切れない。それこそ余計惨めになる。だが傷は付けたい。ああいった手合いの人間は外より内の傷の治りが遅いだろう?そこでね、レオ。君だと思ったんだ」
「は、」
「大事なものを奪い取って傷つけてやろうと思った」

レオナルドは耳を疑った。大事?誰が?はぁ?

「いやそれ完ッッ全にミスってますわ!そりゃ僕が居なくなったら困るでしょうけど、計画に支障が出るとか、吸血鬼が出現したら困るとかそうした事務的なもんっすよ!?」
主張しながら悲しくなってくるが、事実そうである。
情が一切無いとまでは言わないが、彼の琴線に触れるならクラウスさんが適任だろう。
扱いは雑になる一方だしこの間動物イメージゲームなんてしてた時に「少年はビスカッチャだろ。それ以外あり得ない」と言い放っていた。
ビスカッチャて何ですかと検索した結果があれだ。目が細い。寝てるのか起きてるのか分からない。そしてずんぐりムックリな体型。
「ほらそっくりだろ」ふふんと満足げな表情に涙した。起きてるのか寝てるのか分からない顔して(糸目は生まれつきなんだから仕方ない)ずんぐりむっくりと形容すべき身体をしていると暗に言っているのだ。(余談だが以前高所の落下から受け止めてもらった際にコンパクトにデブと言われた。後ろで最早ムーミンの亜種っすよねと声が聞こえたが知らん振りを通した)直接的に言えば悪口だ。
写真を見た途端ザップさんは「激似!激似だろコレ!」と爆笑のあまりにソファから転げ落ちた。
チェインさんは吹き出した。
クラウスさんとツェッドさんは「非常に愛らしい」「可愛いですね」と純真な気持ちで花を飛ばしていたので不問とする。

スティーブン・A・スターフェイズにとってレオナルド・ウォッチとはそうした扱いなのだ。ミステイク、人選の敗北だ。
吸血鬼に拉致られました!と報告が入ったとしてスプリング・ブリザードで微笑まれる事だろう。
「少年、君は馬鹿の集合体か?失礼、これでは馬鹿に対して慇懃無礼だな。失敬失敬」
嗚呼容易に想像が出来る。ごめんなさい馬鹿でごめんなさいほんとすみません。命だけは勘弁してください。

「だからお門違いなんですよ。間違ってます。アランさんの望む結果にはなりません」
トボトボした顔で再度主張する。
「そうお門違いでも無いと思うけどな」
「いやぁ、目測違えてますね。忙しくなるとは思うんですけど内面を傷つけるなんて無理っすよ。痛くも痒くも無いと思いますよ?」
「そうかい?」
「そうですよ。僕を選んだ時点で初手から敗北してます」
こんなにも無駄であったのだと言っているのにアランの瞳は変わらず爛々としている。
「あの男は痛くも痒くもなく、俺の勘違いで全部無駄なわけね。うん、うん。それならそれで良いよ。レオがそう言うのならそうなんだろう。けど物事は多面的に見ないとね。まだほんの数時間だ。目論見が外れたとして今すぐ帰す気にはなれない」
「なっ…!」
「君の重要な役割の大部分は諱名を読み取るその眼だろう。必要になれば帰してやるよ。それまでは俺と一緒にいて貰う。それだって地味な嫌がらせくらいにはなるんだろう?」
絶句した。
「性格が」
「うん」
「悪いです」
「うん」
「とっても」
「ありがとう」
アランの満面の笑みはスティーブンの春風と瓜二つであった。違いを探すのなら背筋にゾッとした寒気を感じない部分だけだろう。

「その間にバイトって行かせて貰えたり」
「しないね」
ガッデム!!知ってたけど!分かってたけど!
ライブラの基本給は丸々ミシェーラに送っている。家賃や生活費はバイト代から捻出されているのだ。
ガックリ項垂れるレオナルドにアランはコーヒーを継ぎ足した。
「巻き込んだ形ではあるからケアはしてあげるよ。髪を二、三本くれれば式神を代理で行かせよう。普通の連中なら気付きやしないだろう。それから…そうだな。組織に君の生存報告くらいなら伝えといてやっても良い。他に注文は?」
「ケアより帰して貰える方が嬉しいんですけどね」
「残念、それは無理。その代わり見合った対価かは分からないが神性存在に関する資料を提供しよう。義眼保有者なら須く情報は欲しいはずだ」
思い掛け無い言葉に息を飲んだ。限界まで目を見開き凝視する。
露骨に関心を示すレオナルドにアランは苦笑しながら言葉を続けた。
「但し過度の期待は禁物。俺達からしてもレオのそれは都市伝説級のアーティファクトだからな、渡した資料が只のゴミにしかならない可能性もある」
それでも悪い気はしないだろう?

レオナルドの腹を据えた眼差しを受けて喜悦した。この少年と過ごすのも、少年を奪われた男が狼狽する様を眺めるのもきっと楽しいに違いない。
吸血鬼は強かに微笑んだ。


警告音が鳴った。
事務所に残っていたのはスティーブン一人だった。コートに手を掛け、いざ帰ろうと照明を落とした時に激しい音が事務所に鳴り響いたのだ。
「ッッ!」
即座にスマホを取り出してGPSを確認する。自身の居場所ではない。レオナルドの居場所だ。
ガミモヅ戦の一件からGPSはスマホだけでなくもう一箇所彼の靴に仕込んである。
ボロを出すことが無いようにと本人には伝えていない。

認証、確認、エラー。舌打ちした。
せめてもう一つのGPSは。
認証、確認、エラー。通話不能、ロスト。
直ちに緊急連絡を全構成員に伝達する。クラウスにレオナルドからの救難要請は届いていなかった。連絡をする暇さえ無かったのか。
何処か見落としている場所はないか。違和感は無かったか。何度思い返しても該当する心当たりは無い。
堕落王による肉食大アリの殲滅の後、豆腐バーガーは有りか無しかの下らない議論をザップ達と交わし、いつも通り挨拶をして帰った。僅かな歪みすらない。ならば不意打ちの出来事か。
GPSが途絶えた直前の最終地点は彼の家からそう遠く無い。
現場に着いたザップからは痕跡すら無かったと連絡が入る。家にも居ない。
過去の失策から改善はしていたのだ。持たせたスマホは耐久性が高く、GPSは別装置として内部に組み込んだ。
レオナルドの意思で切ろうとしても切れるものではない。投げ捨てられ、炎で燃やされたとしてもGPSに関しては生き続けるはずだ。
靴に仕込んだ物も同様。少年は外に居た、裸足なんてことはまず無いだろう。本来警告音が鳴る事自体あり得ないのだ。
それが二つ同時にロスト。どういう事だ。
各員にレオナルドの行きそうな場所を当たって貰っているが発見連絡もない。

「スターフェイズさん、これを」
私服のアニラが持って来たデスクトップを開く。
モニター全面に映し出されたのは監視映像だった。
「レオナルド君のGPS消失時、近くにあった監視カメラが映像を捉えていました」
「でかした!」パッと喜色が浮かんだ。
「ですが…見て貰った方が早いですね」アニラは苦虫を噛み潰した顔で映像を再生する。
荒い映像の端に少年が映る。ふと、何かに呼び止められたように振り返り、惜しげも無く義眼を晒した。
彼は何もない空間に向かって何か言葉を交わしている。映像はザラついて口の動きまでは読めない。突如怯えるように振り払う仕草をすると煙のように消えてしまった。
一連の動作はまるで見えない誰かと相対した様だった。
カメラは鏡だ。鏡に映らない特徴を持つ存在は?自分達はそれを誰よりも知っている。

「吸血鬼(ブラッドブリード)」

こめかみを汗が伝う。
連れ去られたのか。一体どこに、義眼を晒していた。神々の義眼を、吸血鬼共の弱点を曝け出す唯一の武器を。
連れ去られたとしてどうなる。まだ生きているだろうか、殺されでもしたら俺はどうすれば良い。
煮え滾る感情は冷めない。
「スターフェイズさん!」
思考から抜け出すと随分と事務所が冷えていた。
白い吐息が漏れる。おかしい、暖房設備はしっかりと機能していたはずなのに。
「ミスタクラウスに連絡して来ます。事務所に来られるまでには溶かしておいて下さい」
アニラは両腕をさすりながら事務所から出ていった。
溶かすとは何だ。床に視線を落として仰天する。確かにスケートリンクのままではクラウスを出迎えられない。


「これだけですか?」
「これだけだよ。それでも貴重な資料だ。機密文書管理局の金庫に厳重に保管される代物さ」
渡されたのは数枚の紙。元は一冊の本だったのかもしれない。紙の端には綴じられた跡があった。旧き文字と似ているがまた違った文字が乱雑に踊り狂っている。
「解読しなきゃいけないタイプですかね」
「そうだね」
隣の男を覗き見る。視線の意図は明らかだ。
「俺は考古学者じゃないよ。けどまぁいいじゃないか謎解き、ミステリー映画みたいでわくわくするだろ」
「僕頭空っぽにして見れるアクション映画派何ですよねー」
「幸い旧き文字と似ている。一文字ずつ似たものを書き出して行けば地盤は固められるだろう。頑張れ若人、心から応援している」
「あーっ!しかも一人!!一人で!アランさんどうせ暇なんでしょ!?手伝ってくださいよ!」
「俺は最高級のコーヒー豆を調達する為、エチオピアへと向かわなければならなかった…」
明らかに今思いつきました感がありありと出ている。しかも棒読み。カフェインの過剰摂取で中毒になってしまえ。
「なんてのは冗談なんだが」
「手伝ってくれます?」
「目が爛れるから嫌だ。ルーンと性質が同じだなこの文字は、おまけに凶悪。文字一つ一つが呪物。長時間の解読はより上位の物質、神々の義眼でなければ眼球が溶けて盲目になる。エルダー級に匹敵する再生能力は俺には無い」
話を聞くや否、レオナルドは文字をアランから見えないようにサッと後ろへ隠した。
「おっ 気が利くねぇ」
「アランさんは気が利かないですけどね。物騒な物なら先に言ってくださいよ、何ですか眼球が溶けるって」
「びっくりしちゃうよね」
「他人事か!」
レオナルドが息を荒げて噛み付くとアランは声を立てて笑った。

数時間前の怯えていた顔が嘘のようだ。本人は気付いて居ないのだろうが心拍数も安定している。
レオナルドを攫って来た張本人の目を庇おうとするなんて、馬鹿なのか肝が座っているのか図太いのか。底抜けにお人好しなのか。
するりと人の懐に入り込むのが上手い。それも素でだ。良い奴は好きだ。
気に入った人間が出来ても転化なんぞ絶対にさせないと誓っている。
でも傍に置くならレオみたいな奴がいい。
彼はアランの話を聞いて同情したのだろう。選ぶ余地もなく奪われた、その言葉に瞳が揺れていた。
義眼の保有者の周りには必ず盲目の人間が居ると聞く。思うところがあるのだろう。難儀な事だ。
神々の義眼など使い方によっては容易く人類に混乱を招く事が出来る。
奔放な者が私利私欲の為に使えば人界は乱れる。それだけの物が世界に広く周知されず、識る者達ですら真実味を帯びない噂程度の認識なのは悪用することも無く、ただひたすら潜み、視ていた過去の保有者達の功績だ。
神性存在は保有者を意図的に選んでいる。
とりわけ愛情深い善人へと押し付けているのだ。
酷いことをする。良い奴だから選ばれたんだろう。絆が、愛情が強かったから。

レオの髪を鳥の巣になるまで掻き混ぜた。
「えぇ、もう、ちょっと何すんですか!やめてくださいよ」
「可哀想になーっと思って、慰めている」
「文字見るとアランさんの目が溶ちゃうから仕方ないでしょ…」
「よしよし良い子だなー!」
「ああーっ!やめっやめて!禿げる!アンタさては僕で遊んでるだろ!?」
「よーしよしよしよし!」
両手でわしゃわしゃと撫で回す。
扱いが!犬ぅ!とキャンキャン鳴きだしたが良いじゃないか。犬も好きだ。
可愛らしく、愛おしい生き物は総じて好ましく思う。
俺のものじゃなくとも、手元にずっと置けなくとも、可愛がるくらいならバチは当たらないだろう。
構えば構うほど彼は真っ赤になって返して来るのが面白かったが「いい加減解読の邪魔なんで離れてて下さい」と問題の紙をチラつかせて来るので仕方なく距離を置いた。
折角レオがいるというのに新聞や本を読む気にもなれず、かと言ってちょっかいを出せば怒られてしまう。
手持ち沙汰で食器を洗うにしても数分で終わってしまう。
引き抜いた数本の髪を使い、式神を作って暇を潰していたらそれなりに時間が経ったのだろう。
カリカリと文字を書いていた音はいつの間にか止み、眠ってしまったようだった。
陽は高いが人界では真夜中も真夜中。深い眠りに落ちていても当然だ。

よいしょと抱き抱えて寝室まで運んだ。
あどけない寝顔は彼をより幼く見せる。気持ち良さそうなふにゃふにゃとした表情はどんな夢を見ているのか、こちらまで眠くなってしまう。
ごろりと一緒に横になった。
ベッドは元々アラン一人の一つしかないのだ。
ソファや床で寝たところで吸血鬼。肩や腰が痛む事はないが好んでそうした場所で寝る気にはならない。
レオナルドも懇々と眠り続けているし起きる気配もない。
気にする者は寝ていても人の気配に起きたり、眠りが浅くなったりするものなのだがこの子は平気なのだろう。
思い切って胸に抱き寄せてみた。
その行為に対してベッドはそう広くないからと言い訳が浮かぶ。
どうして言い訳が浮かぶのか自分でもよく分からない。やましい気持ちがあるわけでもないし。
…ころころとして可愛いとは思うが、性的なものではない、だろ、これは。多分。
人との触れ合いが久々で浮かれてるんだろうか、どうだろう。分からない。自分のことなのに。
ポンポンとあやすように背を叩いていたせいか、彼はふにゃりとした頬を胸元に擦り寄せてきた。
ごちゃごちゃと思考する頭の中が結論を導き出す前にパチンと弾けて霧散する。
代わりに胸の奥からこそばゆい気持ちが迫り上がる。
むに、とレオナルドのやわらかな頬を摘む事で気持ちを宥めた。
「失敗したかもしれない」
何を、とは言わない。
アランと瓜二つの顔をした牙狩りを苦しめる事には成功するであろう。そこは確信が持てる。
遠目からでも一等大事にされているというのが分かった。だからこの子を攫って行ってやろうと思ったのだ。
レオナルド本人はそんな事で傷付く男ではないと言ったがそれは思い違いだろう。
だから八つ当たりは適切に急所を突き、アランの勝ち。成功なのだが。
レオナルドに近付けば近付くほど失敗している気がしてならない。
あの男は関係ない。別問題、アラン自身の何かについてだ。
あれだけ警戒していたのにアランが態度を改めて、話を聞くだけでコロリと人懐っこくなったのがいけない。

レオナルドを出迎える前にそれなりの事を考えていたのだ。
一方的な八つ当たりの為に巻き込むのだから礼は尽くそうと思っていた。
それでも警戒は解けないだろうし牙狩りに属する者なら自死する可能性もある。戦闘になる様なら拘束もやむなしと考えていたのに。
レオナルドのせいですっかり懸念は楽しみへと変わってしまった。
朝食は何を出してやろうとか、解読に飽きた時用に映画を何本か用意してやろうとか、彼は何に興味があるのかと、それについて共通点はあるのか話題になるのかとそればかり考えているのだ。
あの男に対する激情よりも今は彼に関することばかりが胸を占めている。

「やっぱ失敗したかも」
困ったなぁ。
塵程困っていない癖に呟いた。


レオの奴を見つけたんですが、いや、ちょ、普通にドギモのバイトしてたんすよ。冗談じゃねーですって!でも変なんすよ。言葉通じねぇし雰囲気が違うんですわ。レオもどきっすね。直感すけど本人じゃねーです。んで、無関係とも思えないんで拘束してヤリ部屋に放り込んでます。あー…鏡に映るんで吸血鬼じゃねぇですわ。力も無ぇ。つーわけで尋問はそっちに任せるんでよろしく頼みますわ。旦那にはまだ言ってねぇっすよ。こういうのは番頭の役目っしょ。へいへい、そんじゃなる早で。

血糸によって拘束されている少年は見た目ばかりなら完璧にレオナルド・ウォッチであった。
だが違う。拘束されているのにも関わらず落ち着いており、微笑みまで浮かべている。
その微笑みが別物だと訴えている。
彼はこうも薄ら寒くなる笑い方などしない。確かにこれでは”もどき”だ。
「薬で幻覚でも見ていたのかと思ったが、本当のようだな」
「信用なさ過ぎじゃねっすか」
それは日頃の行いがモノを言うのだ。ギッと睨むと大人しく黙った。身に覚えがあるならもっと慎め。
視線を拘束されたそれへと戻す。
「…お前はレオナルドではない。違うか?」
微笑んでいたソレはこくりと頷くと目を開いた。
覚めるようなあの青ではない。カメラの黒いレンズそのままだ。
「仰る通り、私はレオナルド様ではありません。レオナルド様の一部から作られた式神でございます」
「式神」
「はい、ご主人様がレオナルド様の代わりに勤めを果たしに行けと命令なさったのです。私はそれに従っているだけでございます」
はぁぁ!?ザップが喚く。
「なんで吸血鬼の式神がレオのバイト代行してんだよ!?」気持ちは分かるが煩い。それよりもだ。
「少年は生きているのか、どこに居る。今すぐ場所を吐け」
ガン、と式神の真横を蹴る。
氷は蜘蛛の巣のように広がり皮膚の上を薄く覆う。式神は動じない。
「レオナルド様は存命でらっしゃいます。ご主人様のお側に。貴方様では決して辿り着く事の出来ない太陽の箱庭に」
「返せ」
「私に交渉権はありませんので、ご主人様にお尋ねしませんと答えは返せません」
「答えは一つしかない。今すぐに、レオナルドを返せ。それしか選択肢は無い」
「私の一存では決め兼ねます」
「だったら僕が決める。彼を返せ」
「何度問われても同じ答えです」
「だぁーッッ!クッソ面倒クセェな、ご主人様とやらにさっさとお伺い立ててレオを返しやがれってんだ」
痺れを切らしたザップが刀身を向ける。切っ先は首に触れるか触れないかの位置で止まっていた。
「ではそうさせて頂きます」
一瞬無表情になったかと思えばガクンと首が垂れた。
キュルキュルと機械じみた音を立て、ギギギと顔を上げる。無機質なレンズ越しに誰かと目が合った。

「ふ、ふふ。いやぁこの見た目だからね、直ぐに接触はして来ると思ったけどまさか本人が直接来るとは。むしろ想定通りかな?ハロー牙狩りの御二方」

レオナルドを模倣した式神の声ではない。低い男の声だった。
隣でザップが息を飲む。
パキリ。足元を凍り付かせ、拘束を強化する。
「レオナルドを攫ったのはお前か」
「大事な子なら一人で夜道を歩かせちゃ駄目だよ、悪いお化けが攫ってしまうからね」
「自覚があるようで結構。今直ぐ彼を返して貰おうか」
「可愛い子供を攫うような意地の悪いお化けがそう素直に返す訳がないだろう。命の保証はしてやるから己の無力さに地団駄でも踏むと良い」
「てっめぇ、」
今にも斬りかからんばかりのザップを制する。
同じ様に頭に血が登っていても短絡的にならないのが自身の美徳だ。
「命の保証と言ったな、レオナルドの無事は確かなんだろうな。命だけじゃ足りない、傷の一つでも付けていればお前を世界の終わりまで永久凍土に氷漬けにしてやる」
レンズの先にいる吸血鬼は声を立てて笑った。
「居場所すら分からない癖に随分と頼もしいことを言うね。式神を遣らなければ無事かどうかさえ永遠に分からなかっただろうに。俺が彼に何をどうしようと君達はどうにも出来ない。解ってはいるんだな、その歯噛みした顔!面白いったらないぜ。率直に言って笑える」
「・・・」
言葉に詰まった。口の中でジワリと鉄の味が広がる。
何故よりによってレオナルドだったのか。
「…傷付けなんてしないよ。それは本当だ、誓って言える。俺は義眼になんて興味はないからな。が、君達牙狩りは俺たちの言葉など信用しないだろうけどね。だが彼を傷付けたりはしない、それは望むところではない」
「本当だろうな」
「勿論。そんなに気になるのなら毎日写真でも撮って送ってやろうか?」
茶化す声に顔をしかめる。
「義眼に興味は無く、殺すつもりもない。お前は何が目的なんだ、レオナルドをどうするつもりだ。いつになれば彼を返す」
「目的ねぇ…君は理解しないだろうし、言ったところで彼を返す時期を早める気は無い。あの子をどうこうするつもりもないしね、役割は人質だからな。解放に適した時が来るか、俺が満足するか」
「どうすればお前は満足する」
「放って置いてくれれば勝手にこちらで満足するさ。君たちが自主的に動く必要は無い。俺が言った通り地団駄でも踏んで帰りを待てばいいのさ」
「地団駄でも何でも踏み付けて凍らせてやる。悠長にお前の言を信じて少年の帰りを待てだと?馬鹿を言うな」
「ならご自由にどうぞ。無駄な足掻きを止めはしない。探知犬の様に地面を這い回って探すといい」
吸血鬼はくつくつと喉の奥で笑っている。こんなに腹の立つことは無い。
「さて、俺も君達ばかりに構ってやれなくてね。あまり話し込んでいると彼に気付かれてしまう。ホームシックを推進させる気はないんだ」
「っ!そこにレオがいるのか!?」
縋るように肩をわし摑んだ。

「声を聞かせてやるつもりもないよ」
ブツン。
再度もたげた首からはキュルキュルと音が鳴る。

「御用はお済みになられましたか?」
式神はレオナルドとはカケラも噛み合わない冷たい微笑みを浮かべた。


数日掛けて何とか探れる程度には文字を揃えた。
単語を文字へと繋げ、そこから更に英文に直す。内容は抽象的でボヤけている。
「アランさぁん」
「はいはいどうした」 情けない声を上げて助けを求めた。無理、難解すぎる。こちとら現代っ子だ。
詩を読み解くような人生を送っていないのだ。隠喩など使われても困る。
これマッジで意味不なんすけどぉ〜現代語訳じゃ無いとわっかんねぇんですけどぉ〜!
おいおい泣き付くと飴玉を口に突っ込まれる。
ふぁふぁんふぁぁぁ〜ふ!ふぁふぇ、ふぁふぁんふぁふぃふふぇふぇふぉ〜!
「レオ語よりはマシだな、うん。成る程ねぇこういう内容だったのか、興味深い」
自分だけで勝手に納得しないで下さいよぉ!ガリッと飴玉を噛み砕いた。勿体無いなんて顔をされる謂れはない。
「なんて!書いてあるんですか!」
「良いニュースと悪いニュース、どちらから先に聞きたい?」
「あああぁ意地悪な返し方してきた!嫌なニュースからお願いします」
「さてはレオ、好物は最後にとって置くタイプだな。よし、この数日間俺の激選した映画鑑賞の誘いすら断ってまで君が書き出した紙の内容だが…」
ねちねちした言い回しをして来たな。そうした所がほんとスティーブンさんに似てる。
宣告を待つ為、手を組んでギュッと目を瞑った。

「神々の義眼についての明確な情報は無い」
ああ〜…ああ、あー……………うな垂れた。溶けきってゲル状の何かになる。レオナルド・スライムに名前を改めてもいい。ミシェーラ、兄ちゃんは今日から人間を辞めるよ。
「おい、勝手に液状化現象を起こすなよ。人間としてのプライドを思い出せ」
「プライドとか元からないですもん」
「そりゃ悪かったな、良いニュースは資料がゴミ屑にはならなかった事だ。広義的にだが神性存在と契約を交わした場合には契約の条件を果たせば解放されるとある」
「えっ!」
スライムから人の形に戻る。人間を卒業するのはちと早かったみたいだ。
アランさんは再度噛み砕いて説明を入れてくれた。
神々の義肢に関わらず、神性存在との契約自体の話だと言う。ここの一文分かるか?要はノルマをこなせば良いと謳っている。
「君はその眼を押し付けられた時に何か条件となる事を言われたはずだ。無料で自由に使えと貸し与えている訳じゃない、神々は何かしらの要件を求めている。目的があるんだ。それを保有者が投げ出さない為に担保として代わりに失明する者が居るんだろう」
記述が確かなら神性存在との契約内容を達成すれば自ずと元来の瞳に戻る。現状その眼は貸し出されているに過ぎない。
「見届けるのはどちらだと、心当たりがあるとすればそこしか」
「それだな。問題は見届けるモノがどういった代物かだ。視聴率がトップになる様な特大イベントと言えば…人類の歴史の流れを変えるほどの出来事」
そんなのHLにはありふれ過ぎてる。
世界崩壊の危機なんてザラだ。堕落王を筆頭に馬鹿な事をする超人が十三人も居る。
未来技術と異界技術がフュージョンしたスペシャル兵器なんてのもゴロゴロあるし、それを一つでも外に密輸されたら軍事力でもって国際情勢は大きく変わる。
「人類の危機なら毎週の如く起きてるんですけど、それじゃあ駄目なんですよね」
「結局どんな厄介ごとも内で消化してるからな。外じゃ毎日の危機よりもハリケーン被害やテロ活動による被害者の追悼なんかが見出しのトップを飾ってる。全世界が注目するような事柄は意外と無いもんだよ」
派手なニュースに事欠かない割に外の一面に入りやしないのは、ライブラの様な世界の均衡を信条にしている組織の暗躍があるからだろう。

ライブラ、関連して考えが逸れた。
…連れ去られてから数日が経っている。皆はどうしているだろうか、義眼の手掛かりになるかもと一心不乱でそこまでキチンと頭が回っていなかった気がする。
アランさんは式神を通じて事務所の皆に僕の安否について説明済みとだとは言っていたけれど。
たかがレオナルド一人抜けた所で不調になる人達じゃない。自分が影響を与えれるほど大層なものだとも思っていない。
ザップさんは不便だと文句を言ってそうだ。ツェッドさんはそれを窘めて、チェインさんは…どうかな。行方を探るように託けられているかも知れない。
クラウスさんは胃に穴を開けてないだろうか、申し訳なくなる。K・Kさんも心配してくれてるだろう。
ソニックもまぁ、半野生だから心配はしていない。食べ過ぎていないか誰かチェックしてくれれば良いのだけど。
スティーブンさんは、スティーブンさんは。駄目だ、怖い。
僕が失踪したせいで余計な書類が積まれ、面倒な仕事を増やしやがってと静かに怒っていそう。やだ怖い。

帰った時のスティーブンさんを想像して無言で黙りこくる僕に何を勘違いしたのか、アランさんは背中を叩いて励ましてくる。
「そう難しく考えなくて良いさ、特大イベントが起こるなら発生地点はHLしか考えられない。例えばそう、第二次崩落とか」
「第二次崩落?!」
「ここ数年、世界中の紙面を飾ったトップニュースで誰もが思い出せるのはニューヨークの消失と再構築。ヘルサレムズ・ロットそのものだと思うが」
歴史的な事件なんてそのくらいだろ。匹敵する出来事が起こるとするなら第三次世界大戦。
でも核戦争を起こすリスクを考えられない程上の連中は愚かでもないだろうし、その気配もない。だったら突発的に起こりうる事件だ。前例もある。

口を開けたまま固まる。
崩落の様子は家族揃ってテレビ中継で見ていた。
天地がひっくり返るなんて言葉がぴったりで、この世のものとは思えない映像だった。
また起こる可能性があるのか、それを見届けろと言うのか。
「絶対ではないよ。可能性としての話」
「可能性、もしもってことですよね」
「そう、もしもだよ。案外神々が求めているのはもっと拍子抜けする様な別のものかも知れないよ。彼等の価値観は俺たちには計り知れないからね」
「…はい」
淀んだ空気を取り払うようにアランは窓を開けた。
爽やかな花の香りが部屋を通り抜けて行く。
「とりあえずレオの用事は済んだ事だし映画でも観る?一通りオススメのフィルムを揃えてみたけど」
「どんなのがありますか?」
「サンセット大通り、情婦、ペーパームーン、麗しのサブリナ」
「カラー下さいカラー!」
「風と共に去りぬ、雨に唄えば、高慢と偏見」
恋愛映画の偏りが凄い。げんなりする。
「最近の奴無いんすか」
「高慢と偏見にゾンビがくっついたやつ」
「クオリティをいきなり5段飛ばしに下げて来ましたね。ダークナイトとかどうですか、最高っすよ」
「DCは履修してないんだよ」
「合衆国に住んでて未履修は無いっすわ〜。僕そこら辺は詳しいんで解説してあげますよ!ジャスティスリーグからアベンジャーズまでみっちり観ましょう!」
「正気か?何本あると思っているんだ!」
「スーパーマンは名作だけに絞ってあげますって!盛大にコケたのも省いてあげますから、ね?」
「うるうるした目で見上げてくるんじゃない。合間に古典も挟んでくれ。じゃないと精神磨耗で干からびちまう」
「そんときゃ僕の血でも何でもあげますよ。1本目は何にします?好きなの選んでいいっすよ!」
アランは呻き、片手で顔を覆った。お前はサラリとなんて事を言うんだ。
「順当に発表作品が古い方から見るよ」


レオナルドが消えた日から、ライブラのメンバーの中で唯一スティーブンの動向を気にしていたのは彼女だけだった。

いつの日の事だったろうか。あの男はアルコールに溺れながらも「撃ってくれ」と言った。
「あの子に手を出した時には容赦なく撃ってくれ。いや、それじゃ駄目だ。未遂の内に息の根を止めてくれ。K・K、君なら遠慮なく眉間を打ち抜けるだろ」
まともに恋すら出来てない状態でよくそんなことを言えたもんだ。ちゃんちゃらおかしいったらありゃしない。一笑に付してやった。
あの馬鹿は溢れそうになる想いを隠し通すつもりらしい。
流石馬鹿、ほんと馬鹿。自覚があるのか無いのかは知らないが、気がつけば姿を目で追っていたり、頻繁にお使いを頼んで接点を増やしたり、言ってる事とやってる事がちぐはぐだ。
自制しようとしても出来ない。そういうものだって分かってない。
「自分の感情に向き合わずに逃げてるなんて、その内痛い目見るわよ」
親切心から何度も忠告してやったのだ。だのに適当に相槌を打ちながらのらりくらりと躱していたのだから自己責任。
自己責任だ。自己責任、だけど。
今のスティーブンは悲惨だ。
ろくに寝ていないのが一目見て分かる位に目の下の隈は濃い。瞳は赤く充血している。シャツはヨレ気味でいつもの完璧志向は何処へやら。
疲弊と不穏、息苦しい空気を纏うのも頂けない。手足だけは機械のように忙しなく動かしてるのが余計駄目。
K・Kは机にかじりつく男へわざと聞こえるように舌打ちをした。
「アンタねぇ、いい加減にしなさいよ」
パソコンをバタンと無理矢理畳むと書類をごっそり端に寄せる。
「K・K…」
「まだ続ける気ならあっつあつのコーヒーぶっかけてやる」
はぁ、スティーブンはため息をつくと瞼を押えた。
「今すぐ帰って寝なさい。丸1日は仕事も禁止。鏡見た?ひっどい顔。他の構成員にも悪影響だわ」
「だが」
「黙っていう事聞けっつってんのよ。レオっちを探してんのは別にアンタに限ったことじゃないわ。クラっちもザップっち達もチェインだって自分のやり方で探してる。勿論摩耗しない加減を見ながらよ。相手は吸血鬼なんでしょ、いざ見つけた時に身体がフラフラだったら意味ないのよ。過労と貧血のせいなんて理由でむざむざ目の前で逃げられてご覧なさい。そっちのがよっぽど問題じゃない」
スティーブンの瞳が不安げに揺れる。暫しの間、言葉を探すように動きが止まった。
「寝たくても寝れないんだよ」
蚊の鳴くような、小さな声だった。

「命の保証はするなんて言っていたが相手は吸血鬼だぞ?どうやって信じれと言うんだ。少年には義眼がある、諱名を読み取れる。でもそれだけなんだ、アイツの気分次第で簡単に首が飛ぶ。僕はあの子を生きて故郷に返すと誓ったんだよ。君だって覚えているだろう、僕等は敵すら知覚出来ずにいた。彼はじっと耐えて待つしかなった。幸運だったんだ。偶然彼が生きている内に間に合う事が出来た。時間が足りていなければ切り刻まれて死体になっていたかもしれない」
「結果が全てよ。私たちは間に合ったしレオっちは生きてる」
「だからそれは幸運だっただけなんだ。あの時よりもよほど酷い…1時間、10分、5分、1秒。それが生死を分ける秒針だとするならおちおち寝てなんていられない。寝れないよ。失う恐怖には耐えられない」
「失わない為に寝るの、薬でも何でも使って身体を休める。体力を付けて有事に備える。基本中の基本よ」
それでも無理だっつーんならアタシが気絶させてやるわよ。
拳銃のマガジンをプラプラと揺らす。
飛び道具であって決して鈍器などではないが強打すれば気絶させる事くらいはわけないだろう。
「そんだけ追い詰められる位なら最初から諦めて囲っときゃ良かったじゃない」
「馬鹿言うなよ。大体僕が少年を囲ったら君は撃ち殺すだろ」
「レオっちが安全なら撃たないわよ。呆れはするだろうけど」
随分と情けない顔だ。こんな臆病な男に口説かれて靡く女性の気持ちが理解出来ない。
ユキトシと比べるまでもないわ。

「観念なさいスカーフェイス。貴方の今の姿が真理よ。物分かりのいいフリをして見守ってるだけなんて土台無理な話だったの。そこまで来たらずっと側にいて守り通すしかない。私たちみたいな人間が愛する人を作るのは怖いわ。自分に何かあったら残された家族がどうなるのか、家族に何かあったら…怖くて怖くて耐えきれないから守るの。戦うの。今更手放して安心なんて出来やしない」
今の貴方じゃ守れないでしょ。弱った身体で敵をブチのめせるの?家庭の製氷機レベルじゃ話にならないわ。
押し黙るスティーブンの肩を叩く。

「特別サービスよ。家まで送って行ってやるから支度なさい」


ほぼ丸一日寝て、頭は随分と軽くスッキリしていた。
空っぽの胃に多めの朝食を流し込んで、身を整える頃にはまともな思考回路に戻っていた。全くK・Kには頭が上がらない。
あのままでは似たような作業を繰り返し無駄に疲弊するだけだ。頭の切り替えは大事。
考えてみればおかしな所は多々あるのだ。違和感をくまなく探す、それが今出来る事。
監視カメラの映像も、式神との対峙も引っかかる部分はあった。
レオナルドは何故吸血鬼だと分かっていて直ぐに逃げ出さなかったのか、言葉を交わしていたのも不思議だ。
レオナルドの生存戦略は逃げに徹し仲間を待つ。眼以外は普通の彼にはそれが生命線なのだ。
式神を介した吸血鬼の言動も可笑しい。本人とはスティーブンを指して言っているのだろう。
ザップには見向きもしていなかった。
想定通り、何を想定していた?
レオナルドに扮した式神との接触だけではないニュアンスを感じる。
牙狩りは立場上吸血鬼から当然の如く敵意を向けられる。
しかしてその敵意は嘲りと同義である。何の力も無い子供が両手を振り回して叩いてくるのを眺めている様なものかそれ以下か。下に見られている、舐められている。 相手にされていない。それが定説。

「やたらと挑発していたな」
スティーブンに向けて、過剰なほどに。
レオナルドを攫ったことに関してもそれを殺すと脅し付けるのではなく見せびらかす様に。
ムカムカと腹の中が迫り上がるのは分かりやすくスティーブンの地雷を踏み抜いたからだった。
的確に痛いところをつく。
まるで中身を知っているかのよう。

時計を見た。午前休を勝手に受理されていた為まだ時間に随分余裕がある。
先日K・Kとチェインがアッパーイーストに崩落時消失したケーキ屋が復活したなんて話をしていたはずだ。
午後にはいつも大行列で未だに食べれていないと嘆いていた。
露骨にお礼として差し出せば彼女は嫌がるだろうから、買うなら事務所の人数分。
さも皆への差し入れという体で渡すしかない。

人気店と言えども平日の午前中と舐めてかかったのが悪かった。
寒空の下、長々と並んで店の中に入れたと思えば中は中で人がごった返している。
店内には飲食スペースもあり、混ざり合う甘い香りに酔いそうだ。
ショーケース前までようやく辿り着いた頃には気力が大いに削がれていた。
ピカピカと光る色とりどりのケーキ達を眺めてもどれが良いかと選ぶ余力が残っていない。
もう端から一つづつで良いかと投げやりな気持ちになっていた。

「一番人気はチーズケーキ、甘さが控えめで味は濃厚だ。他も外れはないが個人的にはモンブランとピスタチオがお勧めかな。」

耳元で響く低いバリトンにギョッとする。
隣に割って入って来た男は「驚かせてすまないね、迷っている様だったから、つい」と肩をすくめた。
「いや、気が散っていたもので過度に反応してしまった。こちらこそ申し訳ない。」
「そう?なら良かったよ。さてと、注文して良いかな。モンブラン、ピスタチオ、カンノーロにティラミス。ああ、あとそこのクッキーも一袋頼むよ」
スティーブンは男をまじまじと食い入る様に眺めてしまった。
「何か?」
不躾な視線に男が振り返る。気後れから、つい目を逸らした。
「いえ、何でも。すみません、僕も同じ物を。クッキーの代わりにマドレーヌを二つ。それからチーズケーキを3つとミルフィーユを一つ」
注文しながらも隣の男の方に意識が行く。
似ている。傷と瞳の色こそ違うがスティーブンとそっくりだ。それに低いバリトンボイスにはどこか聞き覚えがあった。
人の顔を覚えるのは得意、おまけにそっくりさんと来れば一度会えば忘れないはずだが…何処で声を聞いたのか。
黒い箱の中に注文したケーキが丁寧に仕舞われていく。
煮え切らない内に男はケーキの入った袋を提げて店を出て行ってしまった。
どこかで、聞いたはずなんだ。強い印象に残っているから声を覚えているのに。
どこで。どこでだ?ぐるぐると思考が渦巻く。
やけに甘ったるい香りが悪いのだ。頭が鈍る。

店外に出てようやっと時間差で頭が働く。開放的な寒々しい風の中、思考を遮る香りが消えて明瞭にピントが合う。
子供を攫った悪いお化けの声は低い。

「クソッ!何ですぐに気が付かなかった!?」
男が消えた方向に駆けた。しかし時すでに遅し。
辺りを見渡しても男の姿はどこにも無い。手元の袋はカサカサと音を立てていた。


身綺麗になって復帰した上司は不機嫌丸出しだ。
顔に堂々と「私は機嫌が悪いです」と書かれている。もちろん比喩だが。
スティーブンが要らないと言った余りのケーキを誰が食べるかじゃんけんしている間も、ソニックがマドレーヌに噛り付いている間も「殺してやる…全身の血液を凍らせて殺してやる…潰して砕いて地球の終わりまで再生できない様にしてやる…」と物騒な事ばかり呟いている。
理由は分かっているので落ち着くまで触れない様にするしかない。
それにしたってギリギリ人間(だと思っている)のスティーブンだけでも厄介極まりないのにそっくりの吸血鬼なんてゾッとする。
生き別れの兄弟でも居たんすかと軽口を叩いた時のあの目。いやもう恐ろしいことこの上なく即座に黙った。
そりゃレオも直ぐに逃げれない訳だ。上司と同じ顔の吸血鬼なんて戸惑って当然。
オーラが見える分余計だろ。

ザップはぐっと伸びをした。
レオにはさっさと帰って来て欲しいもんだ。普段からおっかない上司様が殺人鬼と同じ顔つきになっている。
そこまでブチギレているとは思わなかった。
まぁ容姿をダシにされた様なもんだから無理もないか。
ザップ・レンフロはこの度のレオナルド・ウォッチ誘拐事件を思いの外楽観視していた。
監視対象の式神が毎日ドギモの配達を行なっているせいだろう。
ザップの愛人には呪術に強い女が何人かいる。
曰く完全なオリジナルの式神ではなく、誰かをベースとした素体の式神にはベースの人間との繋がりがあるのだそうだ。ベースの人間が死ねば式神も只の人形に戻る。 スティーブンはあの吸血鬼を信用できないと言う。当たり前っちゃ当たり前。
だが吸血鬼は言葉通りレオナルドをどうこうするつもりは無く生かしているんだろう。
意外と買って行ったケーキもレオナルドの為かもしれない。
目的だけは分かっちゃいないがアイツが生きてんなら他はどうでも良い。難しいことを考える気はない。
問題はそう長く続かないだろう。
これはただの勘だ。
だがザップの野生の勘は他者とはまた一線を画しているのも確かだった。


「”スティーブンさん”に会ったよ」

ガタンと大きな音を立ててテーブルに身を乗り出した。
「えっあっ!?どこで!?ってかマジすか!」
「ケーキ屋さんでね。はいこれお土産。どれでも好きなのを取って良いよ」
「ありがとうございます…」
箱から出されたケーキは色とりどりでどれも美味しそうだったがレオナルドはそれどころではない。
会った、会ったのか。わざとかどうかは分からないけど、そうか。それは。
「気になる?」
「そりゃもー気になりますよ!どうでした?あんまり疲労してなければ良いんですけど」
「隈はうっすらついてた。でも、俺が想像してたよりはマシかな、因みにバレただろうからもう顔を合わせる気はないよ」
隈が出来てるのか。それは確実にレオナルドのせいだ。
「心配してるんだね。帰りたいかい?」
「いつだって帰りたいですよ。かけなくて済む迷惑はかけたくないです…でも」
「俺が帰してあげないから?」
アランはにんまりと口角を上げた。悪そうな顔。

対してレオナルドはうーっと唸った。言おうか言うまいか。
アランが帰してくれと言って帰してくれる様な人物ならとっくにそうしている。
彼はレオナルドにそれなりに優しくてそれなりに酷い。
そもそも酷くなければ八つ当たりにレオナルドを利用したりなんかしない。非道な所は非道。
しかし憎みきれない面も沢山あって、一緒に過ごせばマイナスよりもプラスの部分が眼に映る。
解読だって手伝ってくれたし、何のかんの言いながらみっちりヒーロー映画耐久観賞に付き合ってくれた。
最後には「悪くない」と次の公開予定の作品にまで好意的に興味を示してくれた。
情が移っているのだ。思い違いでなければそれはあちらも同じだと思う。そこら辺を踏まえてだ。

「それもそうなんですけど…アランさん寂しくないですか?僕が帰ったら一人になっちゃうの、大丈夫ですか?」

ああ言った。言ってしまった。
アランは目をこれでもかとかっ開いて強張った。
「出過ぎたこと言っちゃいましたかね」
「あー…うん。いや、いいや…そうだね。うん。レオが居なくなったら寂しくなっちゃうね」
困ったね。眉をハの字にさせながら笑うアランにレオナルドはシュンと縮こまった。
スティーブンといいアランといい、この人達は寂しいとか悲しいとか、そう言った言葉を明確に表すとどうしてこう、似通った反応を返すのか。
スティーブンの時は猫を探していた時だった。
パーティーの最中だったのに友達が全員帰ってしまったらしい。
「それは、寂しいですね。僕だったら友達に都合があったとしても、楽しみにしてたパーティーが一人ぼっちになったら凄く寂しくて悲しいです」レオナルドは迂闊にも思ったことをそのまま口に出して言ってしまった。
言葉を聞いたスティーブンのあの顔、忘れられない。今のアランとおんなじ顔。
結局あの時は代わりにと家に招かれたが。

「大丈夫、ちゃんと時期が来れば帰すから。寂しいけどさ。耐えきれなくなったら糸目で青い眼の犬か猫か飼って可愛がるよ」 「レオナルドって名前でも付けるんですか?」
「よく分かったね」
「マジすか」
「マジの大マジ。ほら、こうして頭を撫でるのも得意だし。いいと思わない?」
大きな掌が遠慮なくレオナルドの髪を混ぜる。
「僕はペットじゃないですよ」
「うん。……良し!それよりもせっかくケーキを買ってきたんだからさっさと食べようぜ。コーヒーも淹れてくるから今のうちに選んじゃいな」
「おすすめは?」
「モンブランかピスタチオ。因みに店の一番人気はチーズケーキ」
「チーズケーキ入ってないじゃねっすか。僕ピスタチオにします」
だってチーズケーキは食べ過ぎて飽きたんだ。快活な笑い声が響く。
「ついでに俺の分も選んでよ」
「じゃあティラミスで」
アランがブハッと吹き出した。
ケーキを皿に移す手が止まる。何だ、ティラミスの何が悪いのだ。買ってきたのはアラン本人じゃないか。
「レーオ。ティラミスの意味はわかる?」
「? そういうのに詳しい人間に見えますか」
「失礼、ティラミスには「私を元気付けて」って意味があってね」
あーなるほど。今の状態に合致した訳だ。
「これには別の隠された意味があるんだ。そのティラミスはクリームの色が黄色だろ。本場イタリアもそう。卵の色だね」
「はぁ」本題が見えず適当に相槌を打つ。
「昔は卵と甘い砂糖は精力剤の一種でもあった。「私を元気付けて」セックスの前に女性が男性に振る舞うデザートだったわけだ」
「!」

レオナルドは耳まで真っ赤に染め上げ、あぐあぐと言葉に詰まった。
それを見て再度アランが吹き出す。
「いいいいいいみとかしらなかったですし!」
「うん、うん」
「そういういともないです…!ない!ほんと!」
「………うん!」
アランはもう涙目で震えていた。
堪り兼ねたレオナルドがセクハラだの変態だの早口で喚き出す。
それが余計にツボに入ってとうとう蹲った。声すら笑って出ないらしい。
レオナルドは声にならない叫びを上げて、ついにはティラミスを冷蔵庫へと閉まってしまった。

楽しくて楽しくて仕方がない。
レオナルドが居なくなったら寂しくて本当に犬か猫でも飼いかねないと思う。
これでは試合に勝って勝負に負けたようなものだ。
手放すのが惜しいったら無い。こんな面白くて良い子なんだ、そりゃアイツが好きになるわけだと思った。
あの牙狩りの男が子孫かもしれないなんて最初に言ったが、もしかすると本当にそうなのかも。好きな子の趣味が同じなんだ。思考回路も似ている。本当に子孫なら嫌な御先祖様で悪かったなとも思う。
それでもこうして戯れる日はさして続かないだろう。
同族から聞いたんだ。
吸血鬼の一人がそろそろ地上で遊んでみたいとこぼしていた。彼奴らの遊びがショッピングや観光なんて訳が無い。
レオが必要になる時は俺が手放さないといけない時。

ちゃあんと帰してやるよ。
俺が閉じ込めて、そのせいで牙狩り連中が死んだりしたら優しい彼の事。きっと悔いてしまう。それは駄目だ。
線引きは正しく引かねばならない。
人じゃないから一緒には居られない。同じ道に引きずり込むつもりもない。
アランなりのプライドなのだ。


昼過ぎ、事務所の中にはクラウスとギルベルト、それからスティーブンの三人だけだった。
人外であることを除けばソニックも含めてプラス一匹。
斗流の二人にはパトリックの所へ使いにやっている。
「外回りに行ってくるよ」
「了解した」
外回り。ソニックは小さな耳でピクピクと音を拾う。
キィとひと鳴きしてスティーブンの肩へ飛んだ。大した重さはないが以前より体重が増えている。
「コイツ…完全に僕に着いて行けば餌が貰えると思ってるな」
ここ数日毎日スティーブンは外回りに行く。
場所は決まってアッパーイースト。あの吸血鬼と遭遇した場所だ。もしかしたらと近辺を回っている。
ケーキ屋も範囲内に当然入る。
店内に入って何も買わないというのも変なので小さな袋に入っている焼き菓子なんかを買うわけだ。
ソニックの狙いはそこで、大きな瞳を潤ませて両手をすりすり。可愛い小動物であることを最大限にこれでもかとアピールすれば「少年には内緒だぞ」と美味しいお菓子をゲット出来る。
旨味を覚えてしまえばもうベッタリだった。
今まで近づいても来なかったくせに現金だ。
挙句スティーブンの家にまでお邪魔している。
レオナルドの家よりよっぽど快適に過ごせるから、という理由だけでは無い。
式神はバイト先とレオナルドの自宅を往復している。得体の知れない者が居る家には帰りたく無いのだろう。
一度レオナルドでは無いと気付かずに襟元へと潜り込んだが、毛を逆立てながら慌てて出ていったのをザップが見ている。むしろザップの顔にへばり着く勢いで逃げ出していた。

もう一つ理由が有るなら単純に寂しいからだろう。
遠巻きに式神を眺めては今日も違うと気落ちして事務所に来る。
僕の友達はどこに行っちゃったのとばかりにキュイキュイ鳴くのだ。
K・Kに叱咤されるまでボロボロだったスティーブンを同族と見ているのだろうか、何かと傍に寄るようになった。
猿と同族など字面は酷いが寂しい気持ちは同じ。寂しい者同士、仲良くやってる。
スティーブンも寄られて悪い気はしない。レオナルドと大体一緒に居る仲のソニックに懐かれてるのだ。
好きな子の大切な友達。仲良くしてて良いじゃないか。
ソニックが既にスティーブンに慣れていれば今後が楽だ。
もう諦める事にしたんだ。新たな準備は着々と進めている。
だからあとはレオナルド本人だけが必要なのだ。
するすると人混みを抜けながら歩く。冗談で「君も見張っててくれ」と頼むとキィキと鳴いた。
頼もしいなぁと笑っていると、突然ぶわりとソニックの毛が逆立つ。
どうしたんだと視線の先を合わせれば式神が立っていた。

「お前」
式神は一礼すると高層ビルの一つを指さした。
「恐らく5分後、あのビルの屋上から出現すると思われます」
靴のギミックへと力を込める、いつだって攻撃を繰り出せるように。
「出現する、というのはお前の主人か?レオナルドか?」
「いいえ」
式神は首を横に振ると真っ黒なレンズの目を開いた。
「ご主人様への報告は現在同時に…出現するのは別の個体です。他の牙狩りの皆様を呼ばれることを推奨致します」
眉をひそめた。何故吸血鬼の式神が牙狩りにとって協力的な態度を示すのか、罠か否か。
「レオナルド様に泣かれるとご主人様が困るとおっしゃるので」
「何故困る。お前の主人は吸血鬼だろう」
「貴方様はご主人様とよく似ておられますのに解ってらっしゃらないのですか?」
これまで微笑みか無表情の二つのパターンしかなかった式神は、初めてキョトンと呆けた顔をした。
それが不意に本物のレオナルドそっくりでたじろぐ。
「全ての生き物にとって愛は不変ですよ、ミスタ」
式神はぐにゃりと蜃気楼の様に歪んで消えた。
ごうごうと空から怪しげな音が鳴る。見上げればビルの屋上には血脈門が浮かんでいた。

「少年が居ない以上は滅殺だな」
ソニックに遠くへ逃げるよう促す。
あの門が開くまでにクラウス達は到着するだろうか。


もこもこしたミトン。ざっくりとした手編みのマフラー。ファーの付いたハーフコート。
まとめて着せられると丸きり雪国に住んでいる子供だ。耳あてもあれば完璧。
「あの」
「うん?」
顔の半分まで巻かれたマフラーからぷはっと息を吐き出した。
「暑いんですけど。どうしたんですかコレ。どっか外にでも行くんですか?」
アランの袖を引いて尋ねる。
「暑い?コートの中はペラペラの薄着だろ?冷たい風が吹いてるからさ、このくらい着膨れしてた方がレオには丁度いいと思うけど」
「自前がペラッペラの服で悪うござんしたね」
悪い悪いと笑いながら寝癖まで直して来る。あんたは母親か。
にこにこ顔のアランを訝しむ。
「何か企んでます?」
「うーん、そうだな。例えば可愛がっているペットをさして仲良く無い奴に預けるとするだろ。で、数日後にペットを受け取りに行ったら毛艶が良くなって挙句洋服まで着せられてるんだ。どう思う?」
「? 可愛がってくれたんなら良いんじゃねーすか」
「…聞く相手を間違えたな。壊したスマホも修理から戻って来たし、他に必要なものはないか」
「えっ!スマホ直してくれたんですか!」
「外に出ないとGPSも通信機能も作動しないけどね。ちゃんと大事に持っておくんだよ、きっとすぐ必要になるから」
アランはぽふりとコートのポッケを叩いた。確かめれば外のカバーは変わっていたが支給されたスマホで間違いない。
「ありがとうございます。…えっとアランさん、僕、もしかして今から帰れるんですか」
「うん、帰すよ。約束は守らないとね。溜飲はとっくの昔に下がったし、長らく拘束して悪かった」
ふるりと首を振って目を合わせる。
「拘束じゃないでしょ、十分におもてなしされちゃいましたもん。最後の最後で他人行儀なんてやですよ、僕ら友達でしょう?」
「そうだね、…友達だ。友達のままでいれるよう、もう君とは二度と会わない事にする」

二度と会わない、お互いの為だと分かっていても悲しくなる。
中身を知って、仲良くなって、それでも彼は吸血鬼だ。レオナルドだってライブラの立派な一員。
アランが害する気がなくとも諱名を読めと言われれば読まなければならない。
箱庭の中は異質で、だからこそ本来相容れない者同士が親しくなれたのだと思う。
外に出れば同じようにはいかない。
「アランさん、前に僕が帰ったら寂しくなるんじゃないかって言ったじゃないですか。あれ、僕も同じですからね、僕だって貴方と離れたら寂しいですから。だから、あのー、えっと」
おろおろとさ迷いながらもアランの心臓に片手をあてた。もう一方の手はレオナルド自身の心臓に。
「同じです、から。貴方が寂しい時は僕も寂しいし、僕が貴方を思い出して擽ったくなる時はきっとアランさんも同じだと思います。一緒ですよ、大丈夫です。はい!」
目眩がする。吸血鬼は太陽が苦手なんだ。眩してく目を細めてしまう。
「君なぁ…こんな際になって別れ難いことを言うんだもんな、ほんと適わない」
ゆっくりと腰を屈めて両腕を開いた。
「ハグしてくれ」
「もちろん!」
勢いよく飛びついてもしっかりと抱き込められる。大小の差が大きくて、さながら親子の抱擁にも見えた。
アランは温もりを噛み締めてから、指先でレオナルドのまろい頬を撫でる。
「レオ、レオ、君くらいに最高の友達は今までもこれからもないよ。たった一月足らずの日々だったけど俺にとっては十分過ぎる程楽しかった。ありがとう」
レオナルドはニッと笑って、それからまたハグをした。

出来る事ならずっとこうやって抱きしめ合っていたい。
吸血鬼らしく高慢に理不尽にレオナルドの首筋に噛み付き転化させる事が出来たならどれほど良かっただろうか。
仲間の元へと帰れない身体にしてやれば否が応でもアランの側に居るしかない。
そう出来たならどれほど…。欲望に染まり切らないのは望まぬ転化に苦しんだ過去の自分があるからだ。あんな辛い思いをさせるわけにはいかない。
レオナルドの様な人好きする子供が人の輪から弾かれたとして、不幸な結果にしかならない。火を見るよりも明らかだ。

いざ手放す時になるとこうも駄々を捏ねたくなる。
同じ顔をした男に対する溜飲が下がったなんて良く言えたもんだよなぁ。
彼はこの子を手放さず、側に置くことが許されるのだ。アランには到底許されない。天と地ほどの差がある。
悔しいなぁ、俺に与えられた役目は悪い魔法使いだ。二人の距離を縮めるためのスプリングボード。
こんな役回りは望んでいなかったのに、番狂せの原因がレオナルドなのだから救えない。
嗚呼、けど自分の様な奴には勿体無いくらいに柔らかな情を注いでもらった。
それを無駄にするのは裏切りと同義だろう。

玄関の扉は木製のそれではなくなっていた。
扉の男の目がギョロリと見下ろす。扉の先は真っ黒で見えない。
アランはレオナルドを腰に抱きつかせて一歩進んだ。
及び腰になっている姿を見て、安心させるようくしゃりと頭を撫でる。
「大丈夫、怖がらないで。外に直接通じてるんだ。ただちょーっとだけ高い位置に出るかもしれないから良く掴まっておくんだよ。自分をコアラだと思い込むくらいがベストだ」
レオナルドがコアラァ!?と叫ぶやいなや躊躇いなくアランは扉をくぐった。

視界を開ければ地面が見えない。暖かい格好をしていて良かった。風は凍てつく様に冷たい。
ビュウと一層強い風が吹き慌ててアランにしがみ付く。
「う、わ、わわわっ」
高層ビルよりも更に上。ヒッと小さく悲鳴が漏れた。
「遠過ぎたかな?まぁいっか。レオ、下を良く見て。支えてあげるから焦らずにゆっくり」
言われるがまま、恐る恐る下を覗き見れば土煙の中で激しい戦闘が行われていた。吸血鬼とライブラ。
エルダー級でないにしろ攻防は一進一退、決め手が使えないのだ。999式。レオナルドの義眼が無ければ使えない。
まだ誰もレオナルド達の存在には気が付いていなかった。これほどの高所だ、人がいるなんて考える方がおかしい。
つまり狙われる心配もない。
息を吸って、吐いて、目を凝らす。打ち漏らしが無いよう正確にスマホの入力アプリへ文字を入力する。
緊迫した空気の中でテロリン、と場違いな音が鳴った。送信完了。
クラウスの方にも無事諱名が届いたのだろう。密封される姿を義眼が捉える。

「降りるよ」
安心し、力が抜けきったところでアランが囁いた。
降りる。降りるとは降下する事だ。嬉しくもない話、割と頻繁に落下する事は多いがここまでの高所では中々無い。
ふわふわとタンポポの種の様にでも降下するのだろうかと思っていた自分が馬鹿だった。

「ちょえっ!えっ!?えああああああああちょっと嘘でしょおおおっ!?うぎゃあああっ!?」
パッとしがみ付いていたアランが消え蝙蝠の群れになる。囲まれてはいるが安定しない。
ほぼ垂直落下だ。信じられない。レオナルドの心臓に合わせる努力が欲しかった。
絶叫も絶叫、大絶叫。耳元で風を切る音がする。じんじんと耳が痛い。
あーこりゃ駄目だな。地面と正面衝突だわこれ、死んだわ。と意識が遠のきそうになった瞬間またふわりと身体が浮いて安定する。
半泣きの状態で見上げればアランが笑いを堪える顔をしていた。
「割とマジでキレそうなんですが」
正直情けないことに漏らすかと思った。
「アクション映画が好きって言ってたろ」
「違うでしょお〜!?それは違うでしょーよ、ねぇ〜!見るのと体験するのは別!アンダースタン!?」
「オッケーオッケー」
「軽い!!」
アランはキーキー喚くレオナルドを意に介さず、ひょいと地面に着地し、また飛躍した。
先ほどまで立っていた地面は荒く凍り付いている。
凍りつく先に待っていたのはスティーブンだった。
無表情であったが空気の威圧感というか、凄みが効いている。オーラを見なくても分かる。レオナルドは戦慄した。やばい、めちゃくちゃキレてらっしゃる。春風を超えると無表情になるのか。知らなかった、知りたくなかった。

一方アランはレオナルドを抱え直して周囲を見回した。
1、2、3、…4、5人。先ほどの戦闘で疲弊している様だが臨戦態勢には変わらない。即撤退するのが好ましいだろう。
凍った地面に下ろすのは滑りそうで何だかなぁ、と悠長に考えている間に波のように畝りながら鋭い氷が周囲を覆う。
血のストックにこちらの方が心配してしまうくらいには辺り一面氷の世界と化していた。
他の牙狩り連中すら驚いている。これはこれは。

「貴様、その薄汚い手でいつまで少年に触れているつもりだ?」
地を這うような冷たい声に破顔した。
「あはは、ねぇ見てよレオ。彼物凄く怒ってる」
「待って待って笑えないです。え、何でそんな笑顔なの?ほんと謎、なんで?」
「安全に返して欲しいなら無闇矢鱈に攻撃しないでほしいな。この子に当たったりでもしたら一大事だろ」
「黙れ」
氷の剣が頬を掠める。同時に風に巻かれた炎と雷。赤毛の男の技は危ないな、遠慮という言葉を知らないのか。
猛攻しているがレオナルドを怪我させるつもりはないらしい、アランのみを正確に狙ってくる。長居は無用だ。
「返してやるからしっかり受け止めろよ」
「おぎゃあああああああああ!」
意地悪く笑うと抱えていたレオナルドを高々と放り投げる。
落下地点はちゃんと考えているのだからそんな生まれたての赤ん坊みたいな泣き声を上げずとも良いのに。
視線だけでも射殺さんとしていたスティーブンだったが、悲鳴と共に落ちて来るレオナルドを受け止める姿勢に慌てて切り替えた。

美しいカーブを描き、ぼすんと腑抜けた音を立てて腕の中に懐かしい温もりが帰って来た。小さくて、丸くて、…ちょっと太ったか?
絶対に取り落すものかと腕に力を込める。
「あででで痛い!痛いっす!ミシミシって!」喚くレオナルドの声を無視する。
その程度の痛み、傷付けられた胸の痛みに比べればマシだ。約一月の間僕はずっと、ずっと痛かったんだぞ。そのくらい我慢しろよ、男の子だろ。
男が腕の中の子供を力強く抱き締めるのを目を細めながら見届ける。
なんと呆気ない終わりだろうか。
「ナイスキャッチ。では俺はお暇させて貰うとするよ」
皆の意識がレオナルドからアランへと移る。
「待て!このっ…!」
ライブラが総攻撃を仕掛けようとするも、アランは背後に出現した血脈門にするりと身を滑り込ませた。

騒々しい音がピタリと止む。
小鳥の鳴き声と偽りの太陽。長閑な箱庭。
いつも通りの箱庭は全てが満ち足りているが欠けてもいる。
違う、箱庭に欠けているんじゃない。アランの心にぽっかりと穴が空いているのだ。
抜けた穴の名前を寂しいと呼べばいいのか、それともレオとでも呼ぶべきか。
「うーん。犬か猫、性格的には犬かな?」
ペットを飼うならどっちが良いかなぁ。君はどう思う?
振り返って式神に聞けば「子猿とかどうでしょうか。白くてふわふわした」と選択肢に無いものを選んで来た。
犬か猫って言ったじゃ無いか。猿なんてチョイスどっから出て来たんだ。
「いやー、やっぱ犬でしょ。それで糸目の子ね」
そうですか。式神は不満そうに唇を尖らせた。


こってり絞られるかと身構えていたけれど、全くこれっぽっちも怒られやしなかった。
皆から口々に心配した、大丈夫だったかと撫で回されて、傷が無いか、呪われてやいやしないかと確認される。
「むしろ毛艶が良くなってんじゃねーか」
何でだ。お前どんな暮らししてたんだよ。うわ、この服カシミヤ100%じゃない。このマフラーブランドですよ。最近HLに入って来たばかりで来年の冬まで予約待ちって。
心配の声は徐々に揶揄いや雑談に変わって一人また一人と離れて行く。
案外あっさりしていてホッとした。
ソニックからは頬ずりのし過ぎでちょっとヒリヒリする。それなりに寂しかったらしい。愛い奴め。
襟元に潜り込んで来る小さな温もりは久々だ。少し重くなっている体重は気になったけど。それよりも気にすべき大きな事柄は別にあって、
「スティーブンさん…そろそろ離して貰えるとありがたいんですが」
「・・・・」
何でかなぁ?何でだろう?
一番に怒号を飛ばして来るんじゃ無いかと思っていた人物は、無言でレオナルドを抱え込むように抱きしめている。
他のメンバーも意外そうに見ていたけど、特に誰もその部分にだけ触れないものだからレオナルドから切り出すしかなかった。
「すごく迷惑かけちゃったみたいですみません…でももう大丈夫なんで!こうして無事帰って来れたわけですし、向こうでも結構楽しくやってたので!ね、だから離しても平気ですって」
ますます拘束が強まった。楽しくやってる発言がいけなかったらしい。
いや、まぁ、必死こいて探し回っている間に当の本人がエンジョイしてたらカチンと来るっちゃそうだけども。
こういう時にはK・Kさんに助けを乞うのが一番だと視線を向けるもひらひらと手を振られてしまった。僕もひらひら振り返す。
え、ええー…助けてくれないんですね。マジか。

「…少年、レオ、レオナルド」
「あっはい!何でしょう!?」
抱き留められてから初めてレオナルドに向けての言葉に驚いた。
腕の中でモゴモゴと身を捩る。どうにか向き合う形にしてスティーブンさんの顔を覗き見ると不貞腐れた顔をしていた。
「今回に限っては誘拐なんてされるんじゃ無いと、怒る資格は僕には無い。隙を与えたこちらのミスだ」
「ヘぁ」
「よく分かったよ。GPSだけじゃ足りない。失ってからじゃ遅いんだ。だからこれは命令、君今日から僕の家に一緒に住みなさい」
「へぁっ!?」
「アパートは解約済みだ。式神が居座っていた家になんか戻してたまるか。バイトは大目に見てやるが送迎はさせてもらう。文句は一切受け付けない」
「やっ、ちょっ、でも!」
「でももヘチマも無い。命令だって言っただろ。ソニックも一緒だ、問題ないだろ。なぁソニック」
キュキュイと服の中から上機嫌な鳴き声がする。
了承済みなの!?いつの間にそんな仲になったの!?あっもしかしてソニックの増えた体重ってスティーブンさんのせい!?
「いやいやいやいや可笑しいでしょ!?何で?百歩譲ってアパートのセキュリティーを上げるなら分かりますけど、どうしてそこでスティーブンさんが出て来るんです!?そこまでしてもらう義理はねぇっすよ!」
「あるんだよ。義理も人情もすっ飛ばして納得出来る理由が」
「何がっすか!」

「愛だよ」

多分抱き抱えられてなければ驚きで後ろにひっくり返っていた。
事務所の奥から「エンダアアアアア」とザップさんの汚い歌声が聴こえて来る。
それ別れ話の曲だかんな。意味分かって歌ってんのかアンタ。ボディ・ガードちゃんと見てないのかよ。
汚い歌声に耐えかねてツェッドさんがオーディオプレイヤーのスイッチを押した。
If I should stay I would only be in your way…ワァオ、ドリー版だぁ…。

「観念しろとは言ったけど、初日から同棲は飛ばし過ぎでしょ」


明日はクリスマス。
霧の街でもそこら中に飾られた電飾はピカピカと瞬いて、混沌としたHLとは思えないほどキラキラしてる。
嘘、ごめん。ツリーの綿と思って眺めてたのは異界人の臓物だった。白いからうっかり…いやあんなところに飾り付けした馬鹿は何処のどいつだ。
それでもクリスマスはそわそわと浮足立つもので、買うお金も無いくせに店先を覗き込んでしまう。
「レオとソニックが飾り付けしてくれるなら買ってもいいよ」
「ほんとですか!」
「片付けるのも君らな」
「あーやりますやります!飾り付けも後片付けも!」
やったぁとはしゃぐ。子ども心を忘れちゃ駄目だってどっかの偉い人が言ってたから良いんだ。
色鮮やかなオーナメントを物色する。ソニックは木製のオーナメントがお好みらしい。丸いのから星型、サンタまである。
ふと、オーナメントと並べて置いてあるスノードームに目をやった。
ほとんどはクリスマスらしく白い雪を模したものばかりだ。
その中の一つに雪ではなく、花畑のスノードームがある。ちょこんとした小さな家が可愛らしい。まるであの箱庭のよう。
「スティーブンさん、これ」
「駄目だ」
「買ってほし」
「絶対嫌だ」
思わずジト目になる。
今手持ちいくら入ってたっけ。ごそごそカバンを漁ると「君が買うのも駄目だ」と来た。
「何でそう急に駄々捏ねるんすか」
「何でだろう…自分でも分からないが君がそれを家に飾ったら最後、叩き割って燃えないゴミにぶち込みたい衝動に駆られそうで」
「こわ」
本能?本能なの?

あの箱庭の中でのことは詳しく話していない。
悪い扱いをされていないのならばそれで良いとクラウスさんが寛大に言ってくれたおかげだ。
スティーブンさんだけは不服そうだったけど、映画の下を話したら「もうやめてくれ」とストップが掛かった。羨ましいのに同じ体験はしたくないとの事だ。
スティーブンさんもDC未履修か、なるほど腕が鳴るぜ。

「スノードームなら隣の猿のやつにしようよ、音速猿がモチーフの。なぁ、ソニックもそっちが良いよな」
「キィ」
「すぐそうやってソニックを味方に付けるー」
渋々花畑のスノードームを元の場所に戻す。
今度こっそり買いに行ってやる。僕専用の棚に閉まっておけばバレないだろう。
「多数決は重要だろ?代わりにケーキはレオが選んで良いよ。何処の店にする?遠くでもタクシーを使うから好きなのを選びな」
「うわー、贅沢っすねぇ。ケーキの為だけにタクシー!」
富裕層やばい!
それならとアッパーイーストのケーキ屋を指名する。
チーズケーキが一番だけど、他も外れなし。甘さが控えめで量があってもあっさり食べられる。
「その店かぁ…」
「選んで良いって言ったのスティーブンさんっすよ」
「あそこかぁぁ…」
「往生際が悪くないですか」
「だってなぁ、個人的に近寄りたくないベストスポットなんだ。分かってくれよ」
「分かんないですね〜ほらほら行きましょ!僕タクシー呼び止めときますから先にお会計お願いしますよ」
「ソニック、恋人に紐扱いされる僕って可哀想じゃない?ケーキだってアッパーイーストならレディ・Mで良くないか?」
ソニックはぷぷいと顔を背けてレオナルドの頭に飛び移る。
彼はかの店のクッキーやマドレーヌに夢中なのだ。軍配はレオナルドに上がった。
「多数決は重要ですからね」
「クソガキめ」

鼻歌を歌いながらタクシーを呼び止める。
ケーキは何にしよう。定番のチーズケーキか、モンブラン、ピスタチオ…。
「…ティラミス」
呟いて、耳まで真っ赤に顔が染まる。
博識なスティーブンだ。選んだ君にそうした意図はないのだろうけどと苦笑しながら蘊蓄を語るに違いない。
そこで知っていると言えば、意図を含んでいると言えば彼はどんな顔をするだろう。
ああ、アランさんごめんなさい。あなたから教わった知識をこんな形で実践してしまうなんて!
真っ赤な頬をペシンと叩いて覚悟を決める。
明日は二人揃って久々の休日。恋人同士が睦み合って何が悪いのか。
真っ赤なレオナルドに「寒いの?」と頓珍漢な事を言うスティーブンに笑ってしまった。
自身のマフラーまでレオナルドに巻こうとしてくる手から、ひょいと抜け出す。

「ちっとも寒くないですよ、マイダーリン」

だって真夜中には蕩けるほどに熱くなる。

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