龍アリ/現パロ

彼に体温は無かった

幽霊なんてものは存在しないというのが練白龍の持論である。別に怖がりだからなんて理由ではない、決して。

そもそも俺はリアリストだ。人は死ねば骨になっておしまい。そこに続きは無い。
怪奇談として日常にあるものの多くは人が作ったものであり、夏の特番の心霊特集番組なんてその代表の様なものだ。
心霊写真と言えば合成加工したようなものばかりだし、都合良く芸能人が悪霊に憑依されただの騒ぎ、緊急除霊なんてやっているシーンのうさんくささは眉唾ものだ。
海外の調査で、幽霊を信じる人と信じない人で分け、中世の頃に大虐殺があったという心霊スポットの城を散策させたところ、信じている人たちは皆幽霊を見たと言い、信じていない人達は特に何も見なかったと言う結果が出た。
要は人間の心理状態の問題で、物や影などを見間違えただけなのだ。
だから幽霊なんてものは存在しないはずだ。目の前の壁をするりと通り抜けた、うっすらと透けたこの生物は幽霊では無い。そんなもの居てたまるか。
そう、頭では分かっている。分かってはいるのだけれど直で見てしまった人間は十中八九悲鳴をあげるだろう。
俺とて例外ではない。

「う、うわあああああああああああああああああああああああああっ!?」
「っへ!?ひゃっ、何、お前俺が見えるの!?」

俺の悲鳴にビクリと肩を跳ねさせたそれは、まさしく幽霊だった。

悲鳴と同時に空中に放り投げたコンビニ袋は、牛乳パックのべしゃりと潰れた音と共に地面に落ちた。
頭の中はこれまでの人生に置いて一番の大混乱と言える状態だった。とにかく逃げなければいけないとガンガン脳みそが警告しているのに足が竦んで動かない。
そうしてガタガタと震えている間に幽霊が音もなく近づいてきた。もうダメだ、俺の人生終わった。せっかく家族の反対を押し切り、実家からわざわざ遠い高校に入学して一人暮らしを始めたばかりだというのに。あの魔女のような女からやっと離れられたというのに。
恐怖からギュッと目を瞑る。殺るならひと思いにさっさと殺ってくれ。
すぐさま来るであろう絶望的未来を予想し、拳を握りしめた。
しかしいくら待っても阿鼻叫喚の地獄絵図にはならず、不思議に思いながら薄く目を開けると、幽霊は中身の散らばったコンビニの袋をせっせと元に戻し、「牛乳パック、底潰れちゃってるけど中身は大丈夫だと思う。ほい」と俺に突きだしてきた。
なんで襲ってこないんだとか、どうして透けてるくせに物に触れるんだとか、なぜ牛乳パックの外傷を確かめるほど生活感のある幽霊なんだとか頭に思い浮かぶ言葉はいろいろあったのに、差し出されたコンビニの袋を受け取った俺の第一声はそのどれでもなかった。
「ありがとう、ございます」
「どういたしまして!」
ニカッとはにかむ様に笑った彼に、世間一般的な幽霊論が俺の中で音を立てて崩れ去るのが分かった。


「お前一人暮らしなのか?おーっ広いな、家賃6万ってところかなぁ」
「・・・。」
「この猫の置物可愛いなぁ俺の家も昔はタヌキの置物おいてたんだよ。すっげー不細工な奴」
「・・・。」
「あ、もうすぐ月9のドラマ始まる時間じゃねーの?テレビ付けなくていいの?」
「・・・。」
頭が痛い。何故俺の家に居る、どうして着いてきた。
隣でべらべらしゃべる幽霊の襟元を無言で掴みあげる。幽霊に触れた事に驚嘆しつつ、ドアを開けぺいっと外に放り投げる。
急いでドアを閉め鍵をかける。さて、今夜の夕食は何を作ろうかと考えを巡らせながら上着に手をかける。
制服をハンガーに掛け、シャツを洗濯機に放り込む。手短に近くにあったニットカーディガンを羽織るとエプロンを付け台所に向かう。せっかくコンビニに寄って買った牛乳があるのだから牛乳を使った料理が良いかもしれない。
牛乳はすぐに鮮度が落ちる食品だ。ホワイトソースでも作ってラザニアにするか。
よし、と鍋をコンロに載せたところで俺の現実逃避は終了の鐘を告げた。
「なぁなぁ、何作んの?」
手元をひょいと覗き込んできたこの幽霊に俺は鍋をコンロに置いたままの状態でぴしゃりと固まった。恐怖心だのそんなものはとっくに忘れ去っていた。
怒りと混乱でわなわな震えながら当たり前のように横に居る幽霊を指差す。
「どうしてアンタが俺の家に居るんだっ!」
「おじゃましますって言わなかったから怒ってんの?顔真っ赤だぜ」
さすが幽霊、話が通じないらしい。
へらへらと笑う幽霊、いや、不法侵入者でいいこんな奴は。さっさと出て行け不法侵入者め。
怒りに身をまかせながら不法侵入者の胸元に掴みかかろうとしたが、手は彼の体を通り抜け空気を掴んだだけだった。
なぜだ。さっき家から摘まみだした時は触れたではないか、どうしてこういう時に限って通り抜ける。
己の右手をグー、パーと、開いたり閉じたりしながらキョトンと気抜けした俺に、幽霊はケラケラ笑いつつ間延びした話し方で言った。
「幽霊が見える奴なんてそうそういねーし、これも何かの縁だと思って俺のお願い聞いてくれねぇ?それまで絶対出て行かないし、無理に追い出そうってんなら末代まで祟るぜ」
言われた言葉の意味を理解して絶句する。
なんて奴だ。地獄に堕ちろ。お前なんかの言いなりになってたまるか。そう思い、一息置いて俺は言った。
「夕食を終えた後ならとりあえず話だけは聞きます」
だってほら、あれじゃないですか。後々の子孫が祟られたら可哀想だし困るじゃないですか。
だから決して祟りとか怖いな、なんて私情じゃない。と、思いたい。
そんな俺のコンフリクトに構わず幽霊はにこにこしながら「交渉成立―っ」と手をたたいた。この幽霊はいちいち癪に障る事をする。恐らく、ちょっと話しただけの相手の家に土足でズカズカ踏み入るタイプでしょう。まさに俺の嫌いなタイプじゃないですかああもう!
床に伏して天を仰いだ。


お互い正座をしたままコーヒーテーブルを挟む向い合せの状態だった。
テレビから芸人の笑い声が響く。この一発屋はすぐ潰れるだろうな。全然面白くないネタなのによく人気番組に出られたものだ、コネでも使っているのだろうか。
「えっと、とりあえずは自己紹介からでいいのかな?」
目の前の幽霊が切り出す。アンタ、なんて呼称よりもちゃんとした名前で呼ぶ方が良いだろう。こくりと頷く。
「俺の名前はアリババ。アリババ・サルージャ、享年18歳でっす」
「練白龍です。年は16です」
おおーっ!白龍ぴちぴちの高校生なのかいいなぁー。なんて幽霊、アリババ殿が感心する。気がつけば正座を崩してあぐらをかいていた。忍耐力の無い死人だ、この人は。
俺なんかよりもよっぽど人間じみてないかと呆れながらも本題に入る。話をしないと次に進めない。
「それで、アリババ殿のお願いってなんですか」
「そうそう、それなんだけど成仏するの手伝ってほしいんだ」
「嫌です」
スパッと言いきればアリババ殿は少し固まった後、テーブルから身を乗り出さん勢いで「血も涙もない鬼めっ!」と叫んだ。
いや、だって成仏手伝えとか大方無理難題な中身が多いでしょうが普通。小学生の頃義理姉から借りた漫画には、心残りが歌手のコンテストで一番になることだと言う自己中心的で他者への迷惑を顧みない幽霊のヒロインに、主人公が心身共に振り回され、疲れ果てる内容だった。ヒロインが成仏するシーンでは主人公は咽び泣いていたが、きっとあれは利益のない肉体労働からやっと解放された喜びに感極まって泣きだしたのだろう。
そのことを義理姉に伝えれば、なぜか酷く怒られたのを憶えている。反省文まで書かされた。しかし、何度読んでも解放からの嬉し泣きとしか思えなかった。
「せめてさー、話の内容くらい聞いてから判断してくれよ馬鹿龍」
人の話はちゃんと聞きなさいって学校で先生に習っただろー!と服の裾を引っ張りながら駄々をこね始めた。確かに聞いてやらなくもないが人にものを頼む態度じゃないでしょうそれ。大体、親からもらった名前に馬鹿を付けるとは何事か。
露骨に嫌そうな顔をすれば、さらに喚いてきた。はいはいそうですねーと、適当に流していたら大人しくなったので、じゃあさっさと帰ってくださいと言おうとした瞬間。
俺の服をこれでもかと言わんばかりに握りしめると、二十代の内に頭が禿げるよう末代まで呪ってやるうと恨めしそうな声で低く呻いた。なんですかその呪い。恐ろしい事限りないじゃないですか。
「あーもう、聞きますよ聞けばいいんでしょう!?」
禿げの呪いに恐れを抱き、言えばアリババ殿はぱっと顔をあげ尻尾を振る犬の如く喜んだ。この人犬に例えるなら柴犬だろうな。
とりあえず、今にも小躍りしそうな柴犬を己からべりっと引きはがすと少しは落ち着いてくださいとクッションの上にお座りをさせる。
クッションにぱたぱたと尻尾を打っている幻覚が見えるほどの喜びようだ。一応言っておきますが、話を聞いて無理だと判断したらお断りしますからね?と釘を刺す。
やばい、今度は犬耳がぺたりと垂れる幻覚が見えてきた。

「じゃあ具体的に成仏の何を手助けしろって言うんですか」
「そんな嫌そうな顔で言うなよ。心残りを無くして欲しいって言うわけじゃないんだしさ」
「?、それじゃあなおさら一体何を手伝えばいいんですか。成仏って未練を残さずこの世を去ることでしょう?心残りが無いなら成仏出来るんじゃないんですか」
「あー、世間一般的にはそうだよなぁ」
アリババ殿はぼりぼりと頭を掻きながらうーん、どうするかなー、でもなー、とだらだら独り言を言い始めた。言う事があるなら早く言えと一にらみすると「やだぁ、白龍怖ぁい」とあからさまに怖がるそぶりをした。大根役者め。
とりあえずな、白龍。実際幽霊ってもん自体はそんなに数は居ないんだよ。心残りがあるからって成仏できずにいたら世界中幽霊で埋まっちまうだろ?だから心残り程度じゃ強制的に成仏させられるんだよ。
何で分かるのかって?さぁ、死んだらそういうもんだっていつの間にか分かってたからなぁ。理屈とかじゃなくてそういう世界の理なんだろうな。
あ、うん。それでだな、幽霊になるには3つの条件があるんだ。
一つは、怨念が異常に強いまま死んでいった奴。
一つは、死体が骨になっていない奴。死んでからも肉体と精神は一緒ってことかな?
それから最後に自分が死んだことに納得していない奴。俺の事だな。
「は?だってアリババ殿は自分が死んだって分かってるじゃないですか」
眉間にしわを寄せながら言う。言っていることが滅茶苦茶ですよアンタ。
「うーん、なんて言えばいいかなぁ。例えばさ、もし白龍が事故でいきなり死んだとして、その事故の記憶も物的証拠も何も憶えていない、見ていないとする。それで唐突にあなたは死にましたって言われて本心から納得できるか?」
「それは・・・厳しいですね」
「だろ。知識として自分が死んだと分かっていても、本心が納得しないんだ。百聞は一見にしかずって騒ぎ立てんの」
「つまりその話の流れから行くとアリババ殿は死んだ時の記憶が無いと」
「そう!だから俺の死因を調べてほしいんだ!」
晴れやかに死因を調べろと笑うアリババ殿を前に考える。名前と年齢は分かっている、それならインターネットで調べでもしたら分かるんじゃないだろうか。
住んでいた地域の新聞でも探せばおくやみに載っているかもしれない。図書館に行けば新聞の総合目録が置いてあるだろう。無理な話じゃない。やろうと思えば出来る範囲内だ。
要は死んだことを確認できる物があればいいわけだ。ちらりとアリババ殿を見れば、期待と不安の眼差しでこちらを見ている。案外この人の笑顔は嫌いじゃない。まぁちょっと面倒くさい暇つぶしだと思えばいいだろう。
「良いですよ。手伝っても」
「本当か白龍っ!?」
キラキラとした笑顔で尋ねてくる。うん、やっぱりこの人の笑顔は嫌いじゃない。
「ひとまず今日は疲れたので、調べるのは明日の帰宅後でいいですね?」
「おう!」
間髪いれずに元気よく返事をする彼を見て、少し笑った。尻尾でも付いていたら小さな竜巻が起こる程度には振り回しているところだろう。
その日はめずらしく日記を書いた。日記と呼ぶには簡素すぎる内容だが、人間誰しも衝撃的なことがあれば誰かに言いたくなる。言えない内容なら紙に書いて発散する。ノートの一行にも満たない文字数だがそれでも書くと肩の力が抜けた。

4月22日 幽霊を拾いました。


「おはよー白龍」
「・・・おはようございます」
アリババ殿がソファーで足をバタつかせながら悠々とくつろいでいる。やっぱり夢ではなかったか。
しかし一度腹に決めたことだ、特に動揺はしない。
朝のニュースを見ているアリババ殿の声をBGMにして、てきぱきと朝食を作る。景気悪いよなぁ、今日の降水確率50パーセントだってさ、一応傘持って学校行けよ―。
幽霊になっても考えることは生きてる人間と一緒なのかと思いつつ、席に着いて朝食を食べる。我ながら美味い。
黙々と食べているとアリババ殿が羨ましそうにこちらを見てきた。露骨に食べたそうな顔をしている。
「食べますか?味噌汁と五穀米くらいならまだ片手鍋と炊飯器に残ってますよ」
勧めてやると渋い顔をして断られた。
「食べたいのは山々なんだけどさ、幽霊だから食えないんだよ」
どんぐりを詰め込んだリスの様にぷくりと頬を膨らませるアリババ殿は、18歳には到底見えない。童顔なんだなこの人は。
「そうなんですか?物にも触れるからてっきり食事もできるものと思っていました」
「物に触れる分は頑張れば出来るんだけど、食事はなぁー、消化器官が働いてないからなぁ」
そういう問題だろうか。幽霊にも出来ることと出来ないことがあるのだな。ほうれん草のおひたしをパクリと一口で食す。
食器を片づけるとアリババ殿はゴロゴロと絨毯の上で転がりながら、幽霊に消化器官を恵んで下さい神様ぁっと呻いていた。
確かに、この練白龍の見事な料理を見るだけで食べられないというのは辛かろう。可愛そうに。
彼が成仏出来た暁にはご馳走を供えてやらんこともない。

学校へ行く準備をして玄関へと向かう。アリババ殿に学校も付いてくるかと問えば「俺はおしゃべりだから遠慮しとく。はたから見ればお前が独り言を言っているようにしか見えないから変に思われちゃうだろ?それに死因を調べるのは今夜って約束したじゃんか」と、真面目な返答が返ってきた。昨夜の無礼さは一体何だったんだ。
ローファーを穿き、家を出ようとしたところで声をかけられた。
振り向けば満面の笑みでアリババ殿がひらひらと手を振っている。
「いってらっしゃい」
「行って、きます」
囁くような声になってしまったがしょうがない。行ってきますなんて言葉、実家を出てから一度も言っていなかったんだ。
あの様子だと、帰宅すれば花の咲くような笑顔でおかえりなさいとでも言うのだろう。見送ってくれる存在というものは案外浮き立つ気分にさせてくれるのだなと思った。
「人と慣れ合うのは苦手なはずなんですけどね」
腕時計を見る。7時50分。ゆっくり歩いていけば、ほどよく15分には教室の中だろう。
鞄のずれ下がった肩ひもを上げ直して学校へ向かった。

―――帰宅すれば、ソファーにもたれかかるようにしてアリババ殿が寝息を上げていた。
電気を付けてカーテンを閉める。すよすよとだらしない顔で熟睡している彼の頬をむにゅりと掴む。
「起きてください。アリババ殿」
「んぁ、あー白龍おかえりぃ」
へらりと笑った彼を確認すると頬を掴んでいた手を離す。むくりと起き上がり、あくびをしながら伸びをする。
なんというか、うん。
「幽霊って眠れるのか」
またひとつ世間一般的な幽霊論がぺろりと剥がれ落ちた。
楽しそうにテレビを見て腹を抱えながら笑うアリババ殿を観察しつつ、夕飯のグラタンを咀嚼する。
たまにちらりとこちらを振り向いては心底嫌そうな顔で早く食べちまえよと急かされる。なんでも、美味しいものを目の前で食べられるのは結構に堪えるそうだ。嫌がらせにゆっくり食べる。

「幽霊になっても睡眠は必要なんですか?」 アリババ殿の隣にストンと座ると質問をする。幽霊の生態研究。実験体はアリババ・サルージャ、研究者は練白龍。
「うん、必要だな。朝にさ、頑張れば物触れるって言ったじゃん。多分その物に触れるって動力を睡眠で補っているんじゃないのかな。なんとなく」
「なんとなくですか」
「なんとなく。でも必要っていうのは分かる。何かにたくさん触れた分だけ睡眠の摂取量が増えるから」
「なるほど。それでは、俺がアリババ殿に触れたり、触れなかったりするのは?」

「白龍が俺に触れるのは俺が白龍にとり憑いている状態だからだよ」

おい、ちょっと待て。
「とり憑いているってどういう事ですか!?」
無害そうな顔をしていてもやはり幽霊か、お守りと数珠なんて実家にしか置いていない。盛り塩でもするべきか。
「大丈夫、大丈夫、とり憑くって言ってもお前が思っている様なそんな怨霊じみたもんじゃないから」
別に気分が悪くなったり、肩が重くなったりとかしてないだろ?
はぁ、まぁそうですが。そうだなー、白龍ちょっと手ぇ貸せよ。
不満げに右手を差し出せば、ぱしりと両手を握り合わせられる。
「これがとり憑いている状態。それから」
「!?」
急に合わせていた俺の手がスカッとアリババ殿の手を通り抜けた。両手を合わせることは、お互いに相手の手へ力を押しあって成立するものである。押し返してくる相手が居なければそりゃあ空振りする。
「これがとり憑いていない状態。お前、俺に触れないだろ?」
もう一度手を触ろうとするが、やはりすり抜ける。
「触れないよりも、触れる方がコミュニケーションが取りやすいし、そっちの方が人間に近く感じられるだろ?」
それにとり憑いている相手には、触れても動力を使わないんだぜ。にやりといたずらっ子のように実験体は笑う。
とり憑くとは触れ合う事を共有すると言う事ですか。研究者はやれやれと腕を組む。
幽霊とは摩訶不思議な死に物なり。

アリババ殿から先ほど聞いた情報を頭でまとめていると、だーかーらー、白龍君は俺に乱暴しようなんて考えちゃいけませんよーっとアリババ殿が得意げに指を振り、舌を鳴らしてきた。イラつきつつ、明日から朝食夕食の食事風景をじっくり見せつけてやろうと対抗策を練る方に頭を切り替える。今度好物を聞き出しておこう。そして、好物を目の前で美味しそうに食べてやるのだ。
涼しい顔でアリババ殿の好物を食べる俺と、その横で悔しそうに喚いているアリババ殿。想像するとすがすがしい気分になった。明日にでも実践してみたい。
そんな事を考えているとはつゆ知らず、気がつけばアリババ殿は俺の足もとでテレビを指差しながらゴロゴロ笑い転げていた。アンタはもう少し幽霊らしくしたらどうだ。

ごろごろごろり、ぱたり。ごろごろごろり、ぱたり。
この人は転がるのが好きなのだろうかと考えつつ、笑いながらごろごろ転がるアリババ殿の動きを右足で停止させ、反対方向に思いっきり蹴る。ごろごろごろごろ。
「邪魔です」
「ひでぇっ!」
何言ってんですか。アンタの死因調べるんでしょう?ほら、どいたどいた。
文句を垂れるアリババ殿を部屋の隅に転がすとコーヒーテーブルにノートパソコンを置く。日頃使わないものだから表面にうっすらほこりがついていた。ティッシュで軽く拭き取り、画面を起動させる。

『アリババ・サルージャ』

名前を打ちこんで検索すると、ずらりと検索結果が並ぶ。検索件数、約一千五百万件。
電源も落とさずにぱたりとパソコンを閉じる。
ふう、と息を吐いて閉じたパソコンをまた開く。検索項目に『死亡』と付け足す。検索件数、約二百万件。
その検索結果の多くは株式会社サルージャ商事関連。
サルージャ商事は国内および海外に自動車、銀行、重工業、などを中心に販売、経営、貿易を行っている戦前から続く大財閥である。
なんでよりによってアリババ殿の苗字がサルージャなんだ。嫌がらせか。
「白龍、どうだ?見つかったか?」
アリババ殿が俺の頭の上から画面を覗き込む。見つかるか馬鹿。
「まさかアリババ殿って現、サルージャ社長の息子だったりしますか」
「うんにゃ。ないない」
そりゃそうだろう、だってあまりにも似てない。
サルージャ家は戦後まもなく二十三代目のアブマド・サルージャから、サルージャ家は黒いわかめでも被ったかのような豚に例えられる容姿で現在まで続いている。豚の遺伝子強過ぎだろう。
俺の背中にだらりともたれ掛るアリババ殿をじっと見る。なんだよ。アリババ殿が身じろぐ。
金糸の髪はさらりと流れる様に動き、肌はつるりと職人が作った陶磁器の様で、ぱちりぱちりと瞬いた瞳は太陽の光を凝縮したかのような琥珀色だ。おまけに女顔と来ている。
改めてまじまじと見て思う。俗に言う美少年ってやつではないのか、この人は。口を開けば唯のクソガキではあるが、容姿はこれ以上にないくらい恵まれている。
黙っていればそこらの女優よりも断然アリババ殿の方が可愛いと男の俺ですら思っ・・・て、たまるか―――っ!
勢いよくパソコンのキーボードに額をぶつける。アリババ殿が精密機器へのいじめ反対!と叫んだ。俺より精密機器の心配ですか。

何を考えているんだ俺は。
頭をふるふると左右に振るとパソコン画面に向き直る。結構勢いよくキーボードにぶつけたが、特に外傷はないようだ。最近の精密機器も多少は頑丈になったということか。開発グループの方々ありがとうございます。
とにかく調べなくては始まらない。両袖をたくしあげるとマウスに手を伸ばす。
膨大な量の検索一覧から、ひとまずタイトルを見て関係ありそうなページだけを開いていく。関係のないものはどんどん飛ばしていく。しかし次々とページを進んでいくも量は減らない。雀の涙以下だ。
簡単に調べがつくのではと思っていた頃の自分が憎らしい。だが練家の者として一度決めたことを投げ出したりはしない。この心構えは姉上から授かった目には見えない大事な宝だ。
崇高な志の元、この終わりの見えない文字たちと戦いますゆえ、姉上も料理の向上を是非とも頑張ってください。

その日の地味な格闘は十二時を知らせる鳩時計が鳴るまで続いた。


ここ三日間、白龍は帰宅すると鬼神の如くパソコン画面と向かっていた。
頼んだのは自分だけあってさすがに申し訳ないと思い、定期的に休憩を促すも「ここで止めたら負けるんですよ」と血走った目で俺には見えない何かと戦っていた。本当に申し訳ない。
俺はと言えば、白龍が学校に行っている日中は特にすることもなく、ほとんどの時間眠っているか、昔の記憶を思い起こしたりして過ごしていた。非常に怠惰な生活だ。
時計の針はちょうど午後2時を指していた。白龍が学校から帰って来るまで十分な時間がある。
ソファーに寝転がって昔の記憶をたどる。俺が死ぬまでの18年間はなかなか濃いものだった。
以前白龍に、現サルージャ社長の息子じゃないかと聞かれて否定したが、血縁関係はぶっちゃけたところ繋がっている。
二十二代目のラシッド・サルージャは俺の父親だった。母親はその愛人。
後継者問題の事を考え、お袋は乳呑み児の俺をつれて遠い田舎に隠れ住んだ。戦後、高度経済成長で都市は大きく経済発展していたが、それでも田舎の方はまだまだ近代的とは呼べないものだった。

村の人たちは身一つでやってきたお袋と俺に優しく接してくれた。
毎日村のガキ達と夕暮れ近くになるまで遊んで暮らした。今とは違って昔は人々のつながりが強い。よそのうちの子でも自分の子と同じように良いことをすれば褒め、悪さをすればとことん怒られた。げんこつだって何度食らったか分からない。
それでも俺は嬉しかった。ちょっと雑な扱いだけど、皆から大事にされていると感じることができた。
隣のアモンじいちゃんに理不尽に怒られたとぶうたれれば、お袋は「アンタは孫みたいなもんなんだから構いたくなるのよ。ほんと可愛がられちゃって」なんて笑った。
俺は「可愛がられてるんならお菓子の一つでもくれりゃあいいのに」と悪態をついた。
翌日、どこから聞きつけたのかアモンじいちゃんからげんこつとお菓子を貰ったのを憶えている。

そんな幸せな生活が一変したのはその翌年の冬の事だった。流行病によってお袋が亡くなった。
その日は一日中声が枯れるまで泣いた。子供の泣き声は腹式呼吸故、思い切り泣けばたいそう煩く響いた。
わんわん家の中で泣く俺に、アモンじいちゃんは黙って優しく背を撫でてくれた。翌朝、「今日からお前はわしの孫じゃ、一緒に暮らそう」と言ってくれた。俺は黙ってうなずいた。
しばらくはそうして一緒に暮らした。お袋はとても明るい人だったが、じいちゃんも負けじと煩い・・・明るい人だった。
だから、多少なりと寂しくはあったが悲しくなかった。

お袋が亡くなってから、ちょうど季節がぐるりと一周した寒い雪の日。
戸をたたく音に、雪おろしの手伝いに各家を回る村の若衆でも来たのかと思い戸を開けると、ビキューナコートを着たいかにも裕福そうな男が立っていた。
男は、自分は俺の父親で、俺を迎えに来たのだと言った。父親の記憶が無い俺は、その男が言う言葉を鵜呑みにはしなかった。近頃は親の居ない孤児を攫い、使用人として金持ちの家に売る事案が多く発生していた。
玄関に行ったまま帰って来ない俺に、どうかしたのかとアモンじいちゃんが顔を出した。男はじいちゃんに会釈をし、息子を引き取りに来た次第ですと伝えた。じいちゃんは目玉でも飛び出るんじゃないかってくらい目を見開いてた。
不安げな様子の俺に気がついたじいちゃんは、俺を手元に引き寄せるとしわがれた声で男に言った。
「外は冷えるでしょう。汚い長屋ではありますが、よろしければ中で話を聞きましょう」
じいちゃんと男が話している間、俺は部屋には入れてもらえず、冷たい廊下で足を摩りながら待っていた。息を吐くと白く濁った。
ようやく話が終わり、中に入れてもらうとじいちゃんは申し訳なさそうな顔をして俺に謝った。
男は正真正銘の俺の父親で、もう長くないと悟ったお袋が生前、じいちゃんにだけはと俺の出自を伝えていたらしい。
『もし、あの人があの子を迎えに来るようであれば連れて行ってあげて下さい。私には遺産も身分も何もありません。あの子にとっては辛い思いをすることになるでしょうが、身寄りのない子供が生きて行くためにはそれが一番の最善策なんです。どうか、どうか、最後の頼みと思って聞いてください』
もちろん俺は嫌だと言った。
急にあの男が父親だと言われても、俺にとってはお袋を見捨てた人にしか過ぎず、他人としか思えない。
いやだ。いきたくない。おれのうちはここだよ。
そうやって泣く俺を、じいちゃんは抱きしめた。すまぬ、すまぬのうアリババ。でも分かってやってくれないか。
老い先短い老人と裕福な家の男。わしもそうお前に残せる金は持っていないんじゃよ、わしが死んだらお前はどうやって生きようか。それよりも飢えることもない温かい暮らしのある家に行く方が幸せかもしれん。
俺はいやだいやだと首を横に振って泣いた。まだ幼い子供に大人の合理的な話は理解できなかったし、理解しようとも思わなかった。
裕福な暮らしよりも、貧しくとも楽しく暮らしていく方が幸せだと子供の俺はさらに泣いた。男はそんな俺を黙って見ていた。
じいちゃんは何も言わず俺の髪を撫でた。そのことに、幼いながら別れの合図だと分かった。

俺が男に連れられて故郷の田舎から出て行ったのはその三日後の事。

男の家は見たこともないような大豪邸だった。
それもそのはず、男は多くの企業を束ねる大財閥の社長その人だった。
邸には年の離れた義理の兄たちが居た。義兄も邸の人たちも、まるで物乞いでも見るような眼で俺を見ていた。
俺が自室に通されると、さっきまでいた広間から義兄のつんざく様な罵声が聞こえてきた。
家令の男がため息をつき、呟くように言った。「アブマド様はまた癇癪を起こされて。兄上さま方はあまり頭の出来がよろしくないのですよ。ラシッド様は若様にこの会社の後を継いでほしいのでしょう」
要は、会社を存続させる血縁のまともな後継者が欲しいだけなんだ。
俺が連れてこられた意味はきっとそれだけだ。俺は小さな拳をぎゅっと握りしめた。
翌日からは厳しい教育が課せられた。基本教科はもちろんのこと、当時では学ぶことのなかった英語、中国語から、商業、経済学、経営学、企業論、産業論、他さまざまな事を学ばされた。
専門書から読み解く座学は死に物狂いで勉強すればどうにかついて行けたけど、礼儀作法ばっかりはどうにも苦手だった。それでも血を吐く思いで努力し、ものにした。実際血ではないが、邸に来て2週目で胃液を吐いた。お抱えの医師からはストレスが原因だと言われた。邸の者は、そのうち慣れるだろうと特に気にはしなかった。
そこから2年余り、やっと生活に余裕が出来てきた。邸の者達とも、交わす言葉は短いが声をかけてくれるようになった。それと同時にアブマドが俺に以前よりも一層酷くあたるようになっていた。邸の者達の間で次期後継者は俺だろうと皆が噂していたからだ。
だけど俺としては何の感情も浮かんでこなかった。村に帰りたいとばかり思っていた。
だってここは酷く冷たい。俺をここへ連れてきたあの男はあの日以来何の接触もなく、どうしたってあの人を父親だとは思えなかった。カラカラカラ、空っぽの心は乾いた音を立てた。

そうした俺の心に水が注がれたのはあくる日の晩の事だった。

籠の鳥の様な生活の中で、俺の唯一の楽しみは読書だった。お袋と暮らしていた時は本なんかに掛けるお金もなく、本を読む事なんてなかったが、邸には大きな書庫があった。
日中は授業が詰まっているので、夜自室を抜け出し、月明かりの元、外国の童話や冒険小説なんかを読むのがお気に入りだった。
その日も晩も、同じように書庫で夢中になって本を読んでいた。だから、あの人が声をかけて来た時には驚きのあまり、文字通り飛び跳ねた。
飛び跳ねた衝撃で倒れた椅子を元に戻すと、慌てて謝罪をした。子供が起きていて良い時間ではなかった事と、自室から抜け出し、勝手に書庫へ入った事を咎められると思ったからだ。
しかしあの人は俺を咎めることをせずに、ゆっくりと、それでいて重みのある口調で言った。
「書物が好きなのか」
「はい」
震えた俺の声を気にとめることもなく、あの人は俺が読んでいた本を手に取ると懐かしそうに目を細めた。
「・・・シンドバッドの冒険書か、確かアニスも好きだったな」
「母さんが・・・?」
「お前は彼女とよく似ている。アニスが邸を出て行く前は夜な夜な書庫に忍びこんではこの本を読んでいた」
俺は馬鹿みたいに口を開けて本を見つめた。指先がほわりと温かくなった気がした。
「しかし、本を読むことはいいことだがこの時間にはやめておくといい。睡眠は知識を収納するのに必要なことだ」
「・・・はい、申し訳ありません」
「本が好きなら読書の時間を設けよう。英語の講師がもう十分教えることは教えたと言っていたからな、その時間をあてることにしよう」
それを聞いた途端、俺は勢いよく顔を上げて瞳をキラキラと輝かせた。シンドバッドの冒険書は巻数も多く、睡眠を削って読むことに少々限界を感じ始めていたからだ。
「ありがとうございます!」
深夜だという事も忘れて大きな声で感謝の言葉を伝えると、慌てて口を塞いだ。夜は静かにしなくては。
あの人はそんな俺を見て目じりを下げた。
「今夜は冷える、さぁもう部屋に戻りなさい」
そう言うと羽織っていたカーディガンを俺の肩に掛けた。驚いた俺は掛けられたカーディガンとあの人を見返した。
温かいカシミアの生地からじんわりとぬくもりが移るのが分かった。それが俺の持つあの人の唯一の形見になった。

ラシッド・サルージャが急死したのはそれから3年後の事だった。
俺は訃報を聞いたその日の夜のうちに、少しのお金と形見のカーディガンを身にまとい邸を出た。
次期社長との声は高かったが、正式な発表はしていなかった。故に正妻の子であるアブマドが第二十三代目の社長となることは明らかだった。
アブマドは大層俺の事を嫌っていたから、遅かれ早かれ邸から追い出されるだろうと思っていた。だったら自分から出て行こう。俺は故郷へ向かった。

久々に帰った故郷の風景は、何も変わっていなかった。
変わったことと言えば、アモンじいちゃんが2年前に亡くなったことと、同世代の友人たちは集団就職でほとんど村を離れて行ったということくらいだった。
じいちゃんの墓参りを終え、さて帰って来たもののどうやって暮らしていくかと考えあぐねていた俺に、村の子供たちの教師代わりになってくれないかと声をかけられた。
貧乏な農村の子が安定した会社に就職するにはそれなりの学が必要だったが、当時は裕福な家の子以外は義務教育の小学校にまでしか行かせてやれない家が大半だった。農家の子ともあれば家の手伝いも相俟って、小学校すら行けない子はそう少なくは無い。
そこで、旧制高等学校以上の学力を持つ俺に、学校の教師の代理として勉強を教えてやってくれないかということだった。
俺は二つ返事で了承した。

それからの日々は楽しかった。
空いた時間の出来た子達が俺に家に来ると、黒板代わりに畳に紙を広げ説明する。生憎机や椅子なんてちゃんとしたものは無いからあぐらをかいたり寝転んだりしながら勉強を教えてやった。
時折、子供たちが筆で部屋に落書きをしたりするので、そうした時は容赦なく木に縛って吊るした。迎えに来た母親はあらあらごめんなさいねぇと笑いながら籠に入れたお詫びの野菜をくれた。小さい村だったから、どこの家の子が吊るされているなんて情報は、子供たちによってすぐに広まるのだ。
時には勉強ばかりではなく、一週間分の予定ノルマを達成し、時間が余れば子供達と遊んでやることもあった。
一面中シロツメクサで埋まった空き地で四つ葉を探したり、冠を作ったりしてやることが多かった。
女の子に受けは良かったが男の子達は少し不満そうにしていた。
しかし、木登りや鬼ごっこになるとまぁ大人げないわけだが、気がつけば本気なって遊んでしまい、最終的にブーイングの嵐になるのでこちらとしても配慮したつもりなのだ。
そうやって3年の月日が流れた秋の事だ。
俺は山で採れた秋の幸にほくほくとしながら家路に向かっていた。
サツマイモや栗に柿、それから山を下りる途中に会った猟師のおっちゃんにおすそ分けしてもらったしし肉。
晩飯を栗ご飯にするかしし鍋にするか、頬をだらしなく緩ませて夕暮れ時を急いだ。

靴を揃え家に上がる。台所に食材を置き、さぁどうするかと腕を組んだところで俺の生前の意識は消えた。


次に目を開くと体はふわふわと浮遊感があり、耳に聞こえるのは大人の啜り泣きと子供たちの咽び泣く声だった。
なんだなんだと周りを見渡すと頭ほどの大きさの石が3つ積まれており、皆がその周りを囲って泣いてた。
泣く村人たちにどうしたのかと声をかけるも反応が無く、集団の一人の肩を叩こうとしたところで俺は固まった。
「アリババ君、まだ若かったのにこんなに早く死んでしまって」
誰が言ったのか分からない。けれど、この違和感は、目の前に積み重ねられた石は。
浅い呼吸を繰り返し、恐る恐る泣いている一人の肩に触れようとして、ダメだった。
俺の手は彼の肩に触れることなく透り抜けた。行き場のない手に呆然としながら、そこでようやく自分が死んでしまったことに気付いた。

そこから約60年。
せめて自分を視える人はいないかと町の方に移動し、手当たり次第に声をかけてみるも惨敗。
学生の噂でよくある「~さん、お化けが見えるんだって」との言葉を信じて突撃してみるもまたも惨敗。ホラ吹きめ!と唇をかみしめた回数、計15回
そうして、ようやく先日俺の事が視える白龍と出会い今に至る。
早く成仏せねばと意気込むも、ここ最近は白龍と暮らすのが楽しく感じる。なにせ約60年ぶりの話し相手だ、そりゃあ楽しいわけだ。
だからと言って成仏したくないわけではない。むしろしたい。是非ともしたい。だけど白龍と話すのも楽しい。だから決めきれなくなってしまう前に早いとこ成仏してしまいたいのだ。視える人なんてほんの一握りしかいない。ましてや協力してくれる人なんて一つまみ以下だろう。
きっとこれは最後のチャンスなのだ。
振り手の居なかった双六にようやく参加者が現れた。
ずっと振られることのなかったサイコロがころりと転がり、駒の俺が上がりの道へ少しずつ進んでいく。
振り手が変わることの無いように祈りながら俺はソファーの上で小さく縮こまると、ゆっくりと瞼を閉じた。


俺は真っ白に燃え尽き、アリババ殿は重く沈んでいた。
数日かけて膨大な量のページを調べつくしたというのにアリババ殿に関わるものは何もなかった。
俺の時間と努力を返せと目の前のパソコンを睨むものの、もちろん返事なんてあるわけもなく二人して机に突っ伏していた。
がっくりうなだれて申し訳ありませんとアリババ殿に謝る。乾いた笑い声と共に無いものは仕方ないと返されれば何も言えない。
画面に映された一番古いページをもう一度睨みつける。最近は誰の名前を打ちこんだって案外出てくるものなのに。
小学生の将来の夢など、よく地元の新聞社が卒業の季節になると新聞やWebページに載せているではないか。
自分だって名前を検索すればわずかな情報量だけではあるが、出てくることは出てくる。
むくりと突っ伏していた体を起き上がらせソファーの脚に背中を凭れさせる。
余計なくらいに情報があふれているこの情報化社会で名前すら出てこない、そうなれば考えられる理由は一つ。
「アリババ殿は何年に亡くなられたのですか?」
「昭和26年だけど」
やっぱりか。はぁーっと深く息を吐き出すと、ぱたりと体を横に倒した。そりゃあいくら探してもないわけだ。そんな昔に亡くなった庶民なんて、大層な経歴の持ち主じゃない限りは記録として残らないだろう。
きょとんと首を傾げたままのアリババ殿をちらりと見上げると、またため息をつく。
服装もシャツに胡桃色のカーディガンと、そこいらの学生と同じだったのでそんな昔の人とは思わなかった。昭和26年と言えば今から62年も前だ。生きていたら80歳ってとこだろう。
そうなってくると図書館に行ったとしても当時の新聞があるか怪しい。市内の図書館は建って40年ほど、それ以前の新聞が置いてあるとは思えない。さて、どうしたものか。
黙って考え込んでいた俺の額にアリババ殿がそっと手を乗せた。
まるで母親が子供にするように優しい手つきで髪を撫でる。
「アリババ殿?」
「結果は出なくても、白龍頑張ったからさ」
「・・・子供じゃないんですから」
「でも俺はこんなことくらいしか出来ねぇんだもん。甘んじて受けろよ」
へらりと屈託のない笑みで言われる。優しく髪を撫でられるのは正直なところ心地よかった。仕方ない、甘んじて受けてやりましょう。
されるがままに髪を撫でられながら考える。この人からすれば、俺は孫みたいなものなのだろうか。
見た目の年齢は近くとも、生きた時間が違い過ぎる。
何故だかそのことを考えると息苦しくなった。髪を撫でられる感触は心地良いものなのに、呼吸が苦しい。
自分で思っている以上に、俺はこの人を心の内側に置いてしまっているらしい。
あんなに荒々しく踏みこまれたのに、既に心は居座ることを許して居場所を与えてしまったようだ。
優しい動作を繰り返すアリババ殿の手を取る。
「どうした?白龍」
驚いたアリババ殿に何か言おうとして、しかし言葉は音を持って吐き出されることはなかった。
心の底の何かが必死にその言葉を叫んでいるのに、それが何か分からない。
一体何を叫んでるんですか。もやもやとはっきりしない霧の様なその言葉を、受け取ることができない。
「お前何さっきから百面相してんだ?変なの」
可笑しそうに笑うアリババ殿を見た俺は考えることを放棄した。
今は、この人の笑顔が自分に向けられているのだと分かればそれで十分な気がした。
叫び続ける何かにそっと蓋をする。

今はまだ、その言葉を聞かなくてもいい。まだ、知りたくないんだ。


朝起きると白龍が台所で弁当箱におかずを詰めていた。
俺は首を傾げる。いつもなら当たり前の光景だが生憎と今日は土曜日。学校に行く必要は無いから弁当も作る必要は無いはずだ。
白龍は薙刀部に所属しているらしいが、まだ一年生は今のところ土日は部活が無い。
チュンチュンチュン、外からは可愛らしい雀の鳴き声とうららかな春の日差しが白いカーテンの隙間から漏れていた。
こんな天気の良い休日に弁当を作る理由。ハッと気付いた俺は挙手して白龍に向かって叫んだ。
「さてはピクニックだな!?」
「違います」
即答で否定される。高らかとあげた俺の片手はへにょりと床に伏した。
なんだ。ピクニックじゃないのか。ちょっとワクワクしてしまった自分が悲しい。
白龍は苦笑しながらピクニックだったとしてもアンタ何も食べれないじゃないですかと俺に言う。そりゃそうだけどピクニックという単語は何歳になっても心をくすぐるものじゃんか。ましてや俺はアウトドア派だ。
じゃあなんで白龍は弁当なんか作ってるんだろう。友達と動物園か遊園地にでも遊びに行くのかと尋ねると首を振って「お墓参りですよ」と言われる。ふむふむ、それは感心だ。
現代はお盆やお彼岸にしか墓参りに行かない家がほとんどだ。ご先祖様も喜ぶぞと、いい子いい子と頭を撫でてやると呆れた顔で言われた。
何言ってるんですか。アンタのお墓参りですよ、アリババ殿。
「へぁ?」
間抜けな俺の声に、白龍はやれやれと肩を窄めた。なんか納得いかねぇ。

「自分の墓の場所くらいはさすがに憶えているでしょうね?」と鞄に弁当を詰める白龍に問われる。
当たり前だろうがバーカと背後から膝かっくんを仕掛けようとして避けられる。そんなところに俊敏性は求めていないぞこの野郎。
幼稚なアンタの行動パターンくらい容易に想像付きますよとスカした顔で言いやがる。日付が変わるごとに生意気になりやがって。
初めて会った時は涙目で悲鳴を上げていたくせにと悪態をつくと、顔を真っ赤にした白龍から黙って下さいと口元を塞がれる。おい、ちょ、やめろって死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ、いや既に死んでるけど死ぬって!
白龍に殺される―、二度も死ぬのは嫌だ―と暴れるともう一遍死ねと氷点下の瞳で言われた。冗談の通じない奴め。
腕時計を見て白龍が塞いでいた俺の口を解放する。酸素さん達大好き愛してる。
アリババ殿のせいで無駄な時間を食ってしまいました。さっさと行きますよ。
やれやれといった風な白龍にずるずると玄関へ引きずられる。ちょっとは年上を敬った扱いをしてほしかった。


アリババ殿の言った墓の場所は町から少し離れたところにあった。電車を乗り継ぎ1時間といったとこだろうか。
町から離れるほどに乗客の少なくなる電車に揺られる、目的地まであと一駅になると、乗っている車両には自分達の他には誰も乗っていなかった。
車内をきょろきょろ見渡して人が居ないことを再確認すると、アリババ殿が俺の墓参りになんか行ってどうするんだと聞いてきた。ネットの情報が無いなら現地に行って情報を探すしかないだろうと答えたところ、土日くらいは友達と遊ぶ時間に使っていいのにと要らぬお節介を受けた。
表面上ではにこにこと仲の良いふりをして、見えないところで陰口をたたくあんな生き物と休日にまで顔を合わせるなんて冗談じゃない。疲れが増すだけだろう。
今日だってクラスメイトに遊びに誘われてはいたが断っていた。学校での自分は当たり障りなく、薄く広く人と付き合ってはいるが友達と呼べるものは居ない。相手はそう思っているかもしれないが、こちらとしてはたまたま同じクラスになった同級生という認識だ。
寂しい奴、と呟いたアリババ殿の頬を抓る。
世の中本心から一人で居たいと思っている人間だって居る。人との付き合いを広げても、余計に火種が増えるだけです。
アリババ殿がお前の言っていることが分からないといった顔をする。アンタは火が点いても気がつかないだけでしょうが、すかぽんたんめ。

アナウンスと共に目的地のある無人駅に降りる。
辺りを見渡すと、田んぼと茅葺屋根の古民家がぽつりぽつりと建っているだけだった。奥の方には森林が広がっており、まさに写真やテレビで見る田舎といった感じだ。
「すっげぇ殺風景、何も変わってねぇなぁ」
少し貶した様な言葉とは裏腹に、嬉しそうな声でアリババ殿が声を上げた。
この人からしたらここは懐かしい故郷なのだろう。高揚から頬を赤らめているのがその証拠だ。
「道案内頼みますよ」
「おう、このアリババ様にまかせとけ」
心底楽しい、嬉しいといった様子の彼に、苦笑してしまう。ちょっと、はしゃぎ過ぎなんじゃないですか。
日頃めったに通ることのない、あぜ道をアリババ殿と並んで歩く。
田舎の風景が物珍しく感じる俺に、田んぼに置いてある農具や、食べられる野草や野花なんかを指差しながらあれやこれやと説明するアリババ殿はどこか楽しそうだった。
幾分か歩いたところで、寄りたいところがあるので寄り道をしてもいいかと問われ頷く。
あぜ道から少し傾斜のある山道を歩く。ごろごろとした石と足場の悪い地面。時折地面からその身を覗かせている樹木の根に足を取られないようにして歩くため、山頂に着いたころには昼近くになっていた。
ああよかった。まだちゃんと残ってた。
「久しぶり、じいちゃん」
アリババ殿が声をかけた先には古そうな墓があった。長い間手入れをされていないのか、ところどころ崩れている。
「アリババ殿のお爺さんのお墓ですか?」
「いいや、血は繋がってないよ。でも俺にとっては祖父みたいなもんかなぁ」
慈しむ様な手つきで墓を撫でる。彼にとって大切な人だったのだろう。
そのことを伝えると照れながらも肯定される。
ちょっと口うるさい爺さんだったけど、いい人だったよ。でも何かにつけて俺にげんこつをお見舞いするんだよ、酷いと思わねぇ?どうせアリババ殿が碌でもないことでもしたんでしょう。白龍冷てー、もっと俺に優しくしていいんだからな?だったら優しくしたくなる行動を取ってくださいよ。はは、そりゃそうだ。
アリババ殿は苦く笑うと、墓の前で手を合わせた。

「俺も近いうちにそっちへ行くから」
その言葉に心臓が大きく跳ねた。

ドクドクと脈打つ心臓に、頭が混乱する。なんだこれは。
まるで首を絞められたかのように息が苦しい。無意識に拳を握りしめたところで顔を上げたアリババ殿が眉をひそめた。
「白龍、どうした?顔色が悪いぞ?」
心配そうな顔でアリババ殿が俺の顔を覗き見る。琥珀色の瞳を見ると益々苦しく感じたが、なんでもないと誤魔化して笑う。そんな俺の反応がお気に召さなかったようで、ぐいぐいと背を押されて無理やり木蔭に座らされる。
大したことは無いから大丈夫ですと立ち上がろうとすると、押し戻されて怒られた。
仁王立ちのアリババ殿を前に苦笑する。
「何笑ってんだよ」
「アリババ殿が怒っても恐くないなと思って」
「んだとコラ。せっかく心配してやってんのに失礼な奴め。お前顔色が良くなるまでそこから動いたらダメだからな」
はいはい、分かりましたと軽く流せばカッカしながらちゃんと見張ってるからなと怒鳴られた。
お昼も近いことだし、じゃあちゃんと見張ってくださいねと言いながらカバンから取り出した弁当箱を開ける。アリババ殿が目をそらす。
「見張ってるんじゃないんですか?」
「見張ってるもん」
「目、逸らしてる様に見えますけどねぇ」
ニヤニヤと小馬鹿にしたように言うとお前ほんっといじわるだなとアリババ殿が涙目で文句を垂れた。
「アンタ限定ですよ」
「嬉しくない!」
不貞腐れた子供みたいに足元の雑草をぶちぶちと千切っては投げるアリババ殿を観察しながらのランチタイムはなかなか楽しかった。

「十分な休憩にもなりましたし、体調も平気ですから本命の所にそろそろ行きましょう」
「そうだな」
もと来た道を急ぎ足で下り、あぜ道の所まで戻るとそこからさらに15分ほど歩く。
古民家の数も少なくなり、建物といったら木造で出来た古びた公民館くらいしか見あたらなくなっていた。
「白龍、こっちこっち」
公民館の裏手の竹林へ向かうアリババ殿に着いていく。
無駄にたくさん生い茂る竹をかき分け、苦戦しながら進む俺と違い、アリババ殿は「竹の子とか生えてね―かな―」と呑気にするする先に進んでいく。すり抜けられるからって、そう一人で進んでいかれては困る。
アリババ殿を見失わない様に頑張ってはいるが、好き放題生い茂った竹達が邪魔で今にも見失ってしまいそうだ。
「ちょっと待って下さい、よっ!?」
次の一歩を踏み出そうとしたところで何かに躓いて転んだ。ああもう何ですかと悪態をつきながら躓いた原因に視線をやると、竹の子だった。むかつく。
竹の子を睨みつけて今夜のおかずにしてやろうかと手を伸ばしかけたところでハッと立ち上がる。慌てて周りを見渡すもアリババ殿の姿が見えない。やばい、見失った。
どうしようかと頭をぐるぐるさせていると「白龍遅いぞー」とアリババ殿の呼ぶ声が先の方から聞こえた。
声の響いた範囲からしてわりと近い。急いで竹をかき分けながら前へ進む。
進むにつれて木漏れ日の光が大きく広がる。
目の前の細い竹を両手で一気に押し分けると、目の前に広い空間が現れた。
「おせーよ白龍」
唇を尖らせたアリババ度に謝りつつ、目の前の景色を見回す。
人の頭ほどの大きさの石が三つ重ねになって中央に置いてあり、その周囲を避ける様に竹林が自生していた。
石はところどころに苔が生えており、指先で擦るとぼろリと一かけら地面に落ちた。

「これが俺の墓」

頭の上から声がかかる。見上げると感情の読めない表情をしたアリババ殿が石を指差した。
「身寄りが居なくてお金もない奴はさ、こういった簡単な墓に埋葬されてたんだ」
どっこいしょと言ってアリババ殿が俺の横に腰を下ろした。爺臭いですよと言えば、生きてたら80歳だから俺爺さんだし、いいんだよと反論される。
「説明されないとこんな石、墓だなんて思わねーよな」
「そうですね。でもこの石の下には遺骨が埋まってるんでしょう?」
「掘り返すなよ?」
「しませんよ。そんな罰あたりなこと」
「良かった。骨だっていつかは無くなるものだけど、それでもずっと遠い先だしさ、流石に自分の骨見るのは堪えるから」
「遺骨を見たら成仏するんじゃないですか?」
アリババ殿がしばし口を噤んで解答を出す。
「しないと思う。骨だけじゃあ弱いよ。他人の骨かもしれないって言いわけができる」
「・・・そうですか」
わざわざこんな田舎にまで足を運んでみたものの、収穫はなし。
「振り出しに戻る、ですね」
体育座りの恰好で顔を伏せる。サイコロを振ったはいいが、収穫を得られなかったのでスタート地点に戻る。
いつもの自分なら悲観に暮れるとこだろうが、どうしたことか。
嬉しいと、そう思ってしまう自分がいる。
気を許した相手との時間が増えるから?――いや、近いが違う。これじゃない。
答えが分からない。けれど今、嬉しいという感情だけは、分かる。
気付かぬうちに緩んでいた口元を引き締めたところで不意に頭を撫でられた。 
顔を上げると眉を八の字にしたアリババ殿がごめんと呟いた。
「せっかくここまで来てもらったのに、白龍の一日無駄にしちまったな」
「そんなこと無いですよ。たまには遠出するのも気分転換に良かったですし、空気もおいしいし」

なにより、一日中あなたといられて嬉しかったですし。

ぼそぼそと呟くと、一瞬キョトンとして、次の瞬間にアリババ殿が破顔した。俺も一日白龍といられて嬉しいぜ。
へらりと人好きのする笑顔で言われる。顔が熱い。言葉にされると今さらながら恥ずかしくなってきた。
「やっぱり今のなしで」
「うわっ意気地なし!」
なんだよ、素直に嬉しかったって受け止めろよ可愛くないなぁ。アリババ殿が俺に抱きつきながらわしわしと嬉しそうに頭を撫でる。髪が乱れるじゃないですかやめてくださいって。
「お前はもっと素直になれよーそしたら友達いっぱい増えるぞー?」
「だからそういうのは要らないって言ってるじゃないですか」
「またそうやって、つっけんどんな態度取るからいけないんだよ白龍は」
だから、そういう態度をとっているのはアンタだけですって。
「白龍、初対面だと踏みこませない様な雰囲気だすからさぁ、近寄りたい奴でも近寄りがたくなっちまうぜ」
それはわざとです。
「こんなに良い奴なのにもったいねぇよ。優しくて、真面目で、努力家で、こうして俺の事も見捨てないで一緒に居てくれて、料理もできるのにな」
賛辞の言葉に顔が赤くなる。そう直球で褒められることに慣れていないんだ。照れるからやめれくれ!
照れ隠しに、もうさっさと帰りますよと竹林の方へ戻ろうとすると、アリババ殿にズボンの裾を掴まれて思いっきり転んだ。ばふっとあたりに草が飛び散る。こけたのは本日2度目だ。ちくしょう。
何するんですか!と怒りを露わにすると、アリババ殿は毒気の抜ける笑顔で野草のある方を指さし言った。

「せっかくだからちょっと遊んで行こうぜ」


己の作ったつたない花冠とアリババ殿の手元にある美しい円を描いた花冠を見比べる。
「・・・納得いきません」
せっかくここまで来たんだから、少しは遊んで帰ろうと言ったアリババ殿に付き合い、先ほどからシロツメクサを使って花冠を作っていた。
最初はそんな子供の遊びなんて、と渋々やっていたが、形作られていく冠にいつの間にか夢中になっていた。
花冠など、小さいころに作ったきりだったが、出来たそれは自分からするとなかなかの自信作だった。
年甲斐もなく褒めてもらいたくて、アリババ殿にどうですかと向き直った途端、萎えた。
「おお、良く出来てんじゃん」と朗らかに笑うアリババ殿の手元には俺の作った花冠とは比べ物にならないほど美しい冠が出来ていた。
しっかりと編み込まれたそれは花の大きさや配置もバランス良く整われており、ところどころ小さな黄色い花が編まれている。
「あんたいかにも不器用そうなツラしているのに、なんでそんな器用に作れるんですか」
「おい、さらっと失礼なこと言うなよ」
納得いかない。ちょっと貸して下さいとアリババ殿の作った冠をじっと観察する。まるで教科書に載っているお手本の様に綺麗だ。
「そう怖い顔するなって、経験の差だろ」
花冠を芝生の上に置き、アリババ殿の手を取る。さわさわと触りながら、この手があの冠を作ったのかとこれまたじっと観察する。にぎにぎ。
くすぐったいからそろそろ離していただけませんかねぇとアリババ殿が言うも、手を離すことなく思う存分に触る。
「そういえば、アリババ殿って体温がないんですよね」
「ん?まぁ、そうだな」
最初に触れたときからずっと思っていたことなのだが、この人には体温が無い。
「幽霊なんだから、冷たかったりするのかなと思ってたんですけど、そんなこと無いんですよね」
温かくも、冷たくもない
感触はあるけれど、まるで空気を触るようで、目を瞑ればそこに誰も居ないんじゃないかと不安になってしまう。
そんな不思議な感覚だと思った事を述べる。
「きっと、存在しちゃいけないから。ここにいちゃいけないから体温が無いんだよ」
静かな声で答えたアリババ殿を見る。酷く澄んだ瞳に不安を憶える。
「この世界に生きて存在するものにはさ、何かしらの意味を持って存在してるんだって俺は思うんだ」
この花だって、虫や動物の餌になるし、こうやって冠にすれば人の心を潤してくれるしな。
でもさ、幽霊なんて死んじまったものは、もう他のものに干渉することも影響を与えることもないだろ。
それって生き物のサイクルに反するじゃんか。だから本当は、存在しちゃいけないんだよ、俺はさ。
「っつー事でさっさと成仏出来る様に頑張らなくっちゃなー」
わざとらしいくらいに声のトーンを切り替える。アンタはそういうとこまで変に器用じゃなくていいんですよ。
「そんな寂しい事言わないでください。俺は十分アリババ殿に影響されていますよ」
そうじゃなきゃこの原因不明の息苦しさは何なんですか。貴方が居るから、貴方が存在してるから、笑ったり怒ったり俺の心が変わるんでしょう。
俺一人だけならこんなに心は揺れ動かない。手の甲でアリババ殿の頬を撫でる。あなたはここに居ていいんですよ。俺がそう望むから、必要とするから。
瞼をぱちりぱちりと瞬いたアリババ殿は、白龍は優しい子だなとふわりと笑った。
アリババ殿の作った花冠は、参考用にと思い家に持ち帰ることにした。潰れてしまわない様にそっと鞄に入れる。袋もないので直接鞄に入れることになり、多少草くさくなってしまうが仕方ない。
俺の作った冠はその辺に捨てようと思っていたが、もったいないと不服そうにされたので墓石にそっと掛けた。俺の後ろでアリババ殿が「お供え物ゲット!1レベルアッ
プ!」と愉快そうにケラケラ笑っていた。アンタこれが自分の墓って自覚ないだろ。

公民館の裏手から道の方に抜けると、既に日が落ち始めていた。
田舎道は街灯なんてなくて、これは急いで帰らねばと足を踏み出そうとした瞬間声をかけられた。
振り向けば初老ほどの女性がいた。公民館の人だろうか。
「急に呼びとめてしまってごめんなさいね、若い人なんてこの辺じゃ全然見かけないからつい珍しくて」
何か御用でもあって来たの?ええ、ちょっと調べ物をしに。こんな田舎に?学校の調べ学習か何かかしら?
幽霊の死因を調べに来ましたとは流石に言えないので適当に頷いて、図書館に古い資料が無かったので現地の方に郷土文化を調べに行こうかと思いましてと嘘をつく。
女性は熱心なのねぇと嬉しそうに目を細めた。どう?調べ物は上手くいった?それが思ったよりもあまり成果は無くて。あらまぁ、嗚呼そうだわ、確か町の方の高校の図書館なら古い資料がたくさんあるわよ。もう創立100年を迎える歴史のある高校ですからね、土地の資料だけじゃなくて住んでいた人たちの手記もあったと思うわ。本当ですか!?
思わぬ収穫にアリババ殿が横でガッツポーズをした。さすが白龍、マダムキラーだな。なんですかマダムキラーって。
町の高校名を聞くと自分の通っている学校だった。灯台下暗し。
感謝を述べて別れようとしたところ、ちょっと待ってなさいと言われ、女性は公民館の中へ入って行った。しばらくして出てきたその手には懐中電灯が握られていた。
もう15分もすれば完全に日が沈んじゃうからね、駅まで行くんでしょう?この辺りは街灯もないしあぜ道に落ちたら大変だからね。これは駅の棚にでも置いてくれればいいから。
これは有難い。お礼を言うと気にしなくてもいいのよと手を振る。優しい人だ。

足元を懐中電灯で照らしながら夜道を歩く。女性の言った通り15分ほどもすれば辺りは真っ暗な闇に包まれた。
駅まではあと10分くらいだろうと時計を見る。

タッタッタッタッタ

先ほどから自分の後ろに小走りで何かがついてくる。足を止めると後ろからついてくる足音も止まる。歩き出すと同じように足音が聞こえる。
「アリババ殿」
「何だよ」
「何かついて来てませんか」
「ついてきてるな」
「ちょっと何がついて来てるのか後ろ確認してください」
「やだよ怖いじゃん。白龍が振り向けよ」
「・・・」
「・・・」
お互い無言のまま視線だけで、お前がやれよ、いやお前が、と押し付け合う。第一アリババ殿は幽霊の癖に怖いとかなんですかそれ。万が一、何かあってもアンタだったら大丈夫じゃないですか、生身の人間に押し付けないでくださいよ。
お互い睨んだままでどちらも一向に譲らない。その間にも後ろからタッタッタッタと規則的な足音が聞こえる。
白龍。何ですか。二人同時に振り向くのはどうだろう。それが良いと思います。
足を止めて懐中電灯を持つ手に力を込める。っせ――のっ!
同時に振り向き懐中電灯に照らし出された先には、骨の浮いた灰色の犬が居た。
緊張の糸が和らぎホッと息をつく。
「なんだ犬かよ、ビビって損した」
「首輪が無いところを見ると野良犬ですかね」
変質者とかじゃなくてよかったな―。そうですねー。そう言いながらまた歩き出すと、タッタッタッタとさっきの犬がついてくる。
「・・・何でついてくるんでしょうか」
「懐かれたんじゃねぇの」
適当な返事をしたアリババ殿に反撃する。歩いているだけで懐かれるわけないでしょうが。
「じゃあお見送りしてくれてるのかもよ」
「お見送り、ですか」
「じゃなきゃ送り犬かな」
ケラケラと笑いながらアリババ殿が言う。俺は首を傾げた。送り犬ってなんですか。
「俺も子供の頃にじいちゃんから聞いた話なんだけどさ、夜の山道で人の後ろををぴたりついてくるのを送り犬って言うらしいぜ」
「へぇ、山道ではないですけど、まさしく今の状況ですね」
「それでさ、送り犬の前で転んでしまうとたちまち食い殺されるんだって」
「・・・へぇ、そうなんですか」
何それ怖い。うっかり声が上ずってしまったじゃないですか。

タッタッタッタ。後ろをついて来る犬が急に怖くなってきた。転んだだけで食い殺すなんて理不尽にもほどがあるだろう。
「だから、転びそうになった時はどっこいしょとかしんどいとか言って休憩を取るふりをすれば襲って来ないんだってさ」
「こちらの心労を増やすだけで、一切利益を生み出さない生き物なんですね」
「おま・・・食い殺されてもしらねーぞ」
タッタッタッタ
こちらの話を聞いているのかいないのか、一定の距離感で犬は着いて来る。
でもさ、白龍。転びさえしなければ危ない山道での道中を守ってくれるから、決して怖いだけの生き物じゃないってじいちゃんが言ってた。
食い殺すチャンスを狙っているのに守ってくれるんですか?うん、山の害獣から守ってくれるんだってさ。
タッタッタッタ

結局その野良犬は駅の近くまで俺たちに着いてきた。
駅の白熱灯から零れる光を避け、真っ暗なあぜ道で目を白く光らせながら、ずっとお座りをしている。
もと来た道を帰らないのだろうかと腕を組んで見ていたら「ちゃんとお礼しないと帰ってくれねぇぞ」とアリババ殿から頭をたたかれる。
お礼ってなにをすればいいんですか。昔は草履を片足やるとかだった気がするなぁ。さすがに靴はやれませんよ。じゃあ食いものとかは?それなら昼の残りがあったかもしれません。それでいいんじゃねぇの、それからちゃんとお見送り御苦労さまって言わなきゃダメだぞ。
ごそごそと鞄を漁る。弁当箱を取り出せば、食べ残したリンゴが一切れ残っていた。
犬の前に放り投げる。手渡しする勇気は無い。
「お見送り御苦労さま」
犬は言葉を聞くと地面に落ちたリンゴを咥えて、満足そうにもと来た道を戻って行った。

犬の姿が見えなくなったのを確認すると駅の中に入る。
駅に設置してある時計と掲示してある時刻表を見る。電車が来るまであと15分ほどといったところだろう。
ご自由にお持ち帰りくださいと紙が貼ってある本棚の上に懐中電灯を置く。本でも読んで暇をつぶそうかと背表紙をながめるが、特に興味をそそるものは無かった。
仕方なしにホームの椅子に腰かける。
「結局あの犬はなんだったんでしょうね」
「だから、送り犬じゃねーの?」
「でもそれって結局お化けとか妖怪とかそういうものの類でしょう」
「実際こうして俺みたいな幽霊も居るんだし、そういうのも居ていいんじゃねぇの?」
そういうもんですか。
そういうもんだよ。
「それよりも良かったな」
「何がですか」
「収穫あったじゃん、しかも白龍の学校にあるんだろ。今日一日無駄にならなくてよかったじゃんか」
そうだった。駒はスタート地点に戻るどころかマスを進めたのだ。
嬉しそうにはにかむアリババ殿をみていると胸がチクリと痛んだ。終着点に近づけば近づくほど息苦しくなる。
いっそ、駒を奪い取ってこれ以上進めない様にしてしまおうか。そうすれば、この息苦しさは消えるのだろうか。
少しの期待を胸に言葉を吐く。
「アリババ殿はそんなに成仏したいんですか?」
言えば、はにかんだ笑顔から一転、アリババ殿は真面目な顔つきで俺の方を見た。
「あたりまえだろ?それにずっとここに居ても白龍にだって迷惑かけちまうし」
「別に俺はいいんですよ。アリババ殿と一緒にいるのは嫌じゃないですから」
それに、怖くないんですか。成仏ってこの世から消えるってことじゃないんですか。
「俺に迷惑をかけてしまうとかアンタのそういう勝手な思い込みを除いて、本当に消えたいんですか」
アリババ殿を真っ直ぐ刺す様に見る。
するとアリババ殿はぱくぱくと何度か口を開こうとしては閉じ、目線を下に下げた。
一呼吸置き、また俺に向き直る。

「そりゃあ、怖いよ」

それならばと、言葉を続けようとした俺の口元を抑える。
「ちょっとは黙って聞け。消えちまう事は怖いけど、でもさ、それを上回るくらいに寂しさが勝っちまったんだよ」
だってさ、いくら人に話しかけても誰も気づかないし、昔のなじみの奴らは次々死んでいって俺は取り残されるし、そうなると寂しいことがすげぇ辛くなってさ。いっそ消えてしまいたいって思うんだよ。皆と一緒の所にいきたいって。
「だったら、アリババ殿が寂しいなら、俺はいつまでも貴方の傍にいます。ずっと二人でいればいいじゃないですか、それならきっと寂しくない」
これは優しさなんかじゃ無くて俺の本心ですよ。言えばアリババ殿はいつものようにへらりと笑った。
「実のところ、俺もそうだったらいいなーって思ってたんだ」
「なら、それでいいじゃないですか」
そうすれば、貴方の寂しさも、俺の憂いも溶けてなくなるでしょう?何を拒む必要があるんですか。
まろやかな彼の頬を撫でる。わざわざ自分から消えに行かなくったっていいんですよ。
「だけど、やっぱり駄目だなって」
ピクリと手が動きを止める。何故ですかと視線を絡ませるとアリババ殿は固まったままの俺の手をゆっくりとした動作で離した。それがまるで拒絶されているかのようで心がざわつく。

だって、白龍だっていつかは俺を置いて死んでしまうだろ?

「そしたら俺はずっと独りぼっちだ」
「それ、は」
「それよりもさ、白龍に見送られながら消える方が嬉しい。それなら何も怖くない」
その方がきっと幸せだって俺は思えるよ

なんで、そんな全部を受け止めた様な顔をするんですか。
向けられた視線がなんだか居心地が悪くて俺は目をそむけた。
白龍、お前は?
こたえを促されて口を噤む。澄んだ瞳でアリババ殿が俺を見る。
遠くの方からカンカンカンと踏切の音が鳴る。
『まもなく一番ホームに電車が参ります。危ないですから、黄色の線の内側までお下がりください』
再度アナウンスが繰り返される。
もう、電車が来ますから。それを言い訳に俺は無理やり話を閉じた。


タタンタタンと揺れる電車の中で、自分に寄りかかって眠るアリババ殿を見る。
車両には俺とアリババ殿の他には一人だけで、年寄りの男性が杖を持ったまま眠っていた。
今日の成果は次の調べ先の出所が分かったことと、近頃アリババ殿を見ると心が和らいだり息苦しくなったりする原因が分かった事の二つだ。
前者はいいとして、後者はあまりよろしくない。
「だって、叶わないと分かってから貴方を好きなことに気付いたんですよ。それってあんまりじゃないですか」
眠る相手に愚痴ったって返事は返って来ない。いや、返ってきたら困るけど。大分困ってしまうけど、それでも言わずにはいられない。
そんな俺の葛藤も知らず、気持ちよさげに眠るアリババ殿が憎らしいのか愛おしいのか。
彼が眠ったままなのをいいことに、額に小さくキスを落とした。

どうせ叶わない恋ならば、これくらい大目に見てください。



どさりと本を机に置くと埃が立ちこめた。
長い間誰も読んでいなかったらしく、本の表紙にはざらりと砂がついていた。
図書室の一番奥、郷土資料のコーナーに、此処の所昼休みになると毎日通っていた。
このコーナーの本は貸し出しが禁止されているため、昼休みの30分間しか調べられず作業は難航していた。
最も、あの人に消えて欲しくなくて、俺がだらだらと作業しているせいでもあるが、それは仕方ない。それでも調べることをやめず、こうしてあの田舎町の資料を見ているだけでも偉いと思う。
「よりによって幽霊を好きになってしまうとは」
いいや、きっとアリババ殿だからだろう。それはあの人が生きていたって、いなくたって変わりはしない。
深くため息をついて薄い手記に手を伸ばす。
誰かの日記だろうか、パラパラとページをめくると日付と簡素な一日の感想が綴られていた。これもアリババ殿には関係なさそうだとページをめくる手を止めて本棚に戻すが、ある事に気付きもう一度手に取る。
「・・・写真?」
手記の最後のページに、彩度のくすんだ写真が挟まれていた。その写真の中身に目を見張る。
写真は遠くから撮影したのだろうか、それでも写っている人たちの顔は認識できた。
一面黄色い菜の花畑の中で、小さな子供達に囲まれながら笑っているその人はまさしくアリババ殿本人だった。
写真を片手に、手記のページに目を光らせるがアリババ殿に関する事は何も書かれていない。
写真の中で笑っているアリババ殿をじっと睨む。せめて、この日記の持ち主でも分かればいいが、生憎名前は書かれていない。
「その写真が気になるのかい?」
「っっ!?」
頭を考える方に集中させていた俺は、突然掛けられた声にビクリと肩を震わせた。
ああ、突然話しかけてすまないね。声の主を見てほっと一息つく。
声をかけて来たのは図書室の管理をしているおじいさんだった。御年77歳という高齢にもかかわらず、こうして学校の図書室の管理をしているのはボランティアからとの事らしい。
さらに言えば、この老人は大層なお金持ちであり、学校近くのモダンな屋敷に住んでいるのはこの辺りでは有名なことだ。
また、お年を召している割には受け答えもはっきりとしており、教師達には内緒でこっそりお菓子をくれるなど、優しい学校のおじいちゃんという事で生徒からの人気も高い。
「その写真はね、私が子供の頃に撮ったものなんだよ」
「そう、なんですか」
老人は長く伸びた白いひげを撫でながら懐かしそうに目を細めた。
このコーナーの郷土資料のほとんどは、老人が学校に寄付したものらしい。
「その写真に写っている人が気になるのかい?」
ニコニコと目元に皺をよせて写真を指差す。頷き、綺麗な人ですねと言えば、老人はさらに笑みを深めた。
「その人はね、本当に身も心も綺麗な人だったよ」
「知り合いだったんですか?」
「いや、知り合いでは無いかな。実を言うとね、その人の名前も知らないんだ。ただ、私が君ぐらいの年の頃に一度だけその人と会話をしたことがあるんだよ」

当時私は体が弱くてね、他の子供たちの様に走り回って遊べない事を不憫に思った両親がカメラを買ってくれたんだ。それで写真を撮ることが子供の頃の私には唯一の楽しみだったんだよ。
それでもやっぱり遊びたい気持ちはあってねぇ。遠くの方で遊んでいる小さな子供達をいつも羨ましそうに眺めていたよ。
思う存分走り回っても大丈夫な他の子達が羨ましかったのもあるんだけど、それよりもあの人と一緒になって遊べるという事の方が私は羨ましくてね。
気が弱かった私は声をかけることなんて出来ずに遠くの方から写真を撮って、写真の中のあの人を眺めるので精いっぱいだったよ。うん、そうだね。その写真はその時のものだよ。
綺麗なものを写真に収めるのが好きな子供だったからねぇ、あの人は太陽みたいにキラキラ輝いていて被写体としては申し分なかったよ。
そうそう、それでいつものように遠くから写真を撮っていたんだけどね、なんと私に気付いた彼が一緒に遊ばないかと話しかけてくれたんだよ。そりゃあ嬉しかったよ、ずっと熱望していた人から誘ってくれたからね。今の時代で例えると、若い子が芸能人に会ったみたいに興奮してね、間近で見る彼は写真の中で見る彼よりも眩しくて綺麗で、思わず息が止まるかと思ったよ。
まぁ、体が弱かったから誘いは断ったんだけどね。そのことは本当に申し訳なかったし悔しかったよ。

老人は始終にこにこ笑いながら話していた。こちらとしても好きな人が良く話されているのを聞くのは嬉しい。
もしよければ他にもこの人に関わる資料はありませんかと聞いた。しかし、学校にはこの写真以外には特にないらしい。
気を落とす俺を見て、そんなにこの人の事が気になるのかと笑われた。
「そうだね、明日土曜日の午後からでいいなら私の家に来てみないかい?あの人の写真なら家の方にたくさんあるからね」
「いいんですか?」
「もちろんだとも。それに私は写真だけじゃなく乾燥花や標本を作るのも趣味でね、たまには他の人の目にも触れないとせっかく美しいのにもったいないだろう?」
私の家の場所は分かるかな?すみません、分からないです。そうかそうか、なら簡単な地図を渡しておこう、少し待ってなさい。
老人がメモ紙に地図を書いている間に本たちを棚に戻す。棚に隙間を作り本を収納しながら、この老人にアリババ殿の死因を聞いた方が良いんじゃないかと思ってやめた。
言葉だけでは虚言と判断されるかもしれないし俺が不審に思われる。この老人にとって、俺は写真の中の綺麗な人の事が気になる学生という位置づけなのだから、あまり死因なんて突っ込んだ事を聞いてはおかしい。
「まぁ俺が単にあの人と長くいたいだけなんですが」
ぼそりと呟くと地図を書いていた老人が首を傾げた。どうかしたのかい?いいえ、なんでも。
「ほら、これでいいかな?」
「ありがとうございます」
では、また明日に。
老人が頷くと予例のチャイムと共に教室に向かった。


「そういうわけなんで、明日アリババ殿も一緒に来ますか?」
俺の頭に顎を置き、目の前でひらひらと地図を左右に振りながら白龍が尋ねた。ちょっと地図が邪魔でテレビ見れないんですけど。
パシリと目の前でひらついていた紙を奪い取り机に置く。うん、視界がクリアだ。熱湯に突き落とされた芸人がわたわたと浴槽から出てくるシーンを眺める。体張ってんなぁ。
「それで、来ますか来ませんか」
「でもそれって俺の死因に関係ないんだろ」
「そうですね、趣旨としてはアリババ殿の生前の写真を見に行くって事ですから」
「それ普通に俺が恥ずかしいだけじゃね?」
白龍が俺のつむじに顔をうずめながら籠った声で「でも標本や乾燥花も見せてもらえますよ」と誘惑する。乾燥花には興味は無いけど標本には興味があるなぁ。
うーん、どうすっかなーと唸れば、どうせ一日中だらだらテレビ見てるか、寝てるだけなんだから一緒に行きましょうよと痛いところをつかれる。だってやること無いんだもん。
じゃあ、寂しん坊の白龍君が泣かない様に一緒に行ってやろうと威張ると首筋に噛みつかれた。食べても俺は美味しくないぞ。
白龍君痛いです―、おやめになってー。首から鎖骨までカプカプと小さく噛まれる。ずるずるとソファーに埋まる様に追い込まれていくとガブリと強く噛まれた。あっれ、これはヤバいと本能が告げる。俺に跨った白龍が悪い顔してこっちを睨む。いや、獲物を捕らえる時の肉食動物の目っていう表現の方が近いかもしれない。まじで捕食対象として見てないよな?
「ちょっと白龍!いくら俺の事が好きだからってカニバリズムはだめだろ!」
冗談めかして言うと、白龍の動きがピタリと止まった。おお、やっと我に帰ったか。
一時停止した白龍は、自分でやらかしたくせに目を丸くして見る見るうちに顔が赤くなった。そりゃ、男の上に跨って押し倒してる上にがぶがぶ体噛んでいたと考えると恥ずかしいよな、何やってんだ俺ってなるよな。
うんうんと俺は頷き「とりあえず、退こうか」と促す。だって圧し掛かられたうえに噛まれた方の俺だって恥ずかしい。
おずおずと俺から退き、顔を真っ赤にしながら小さくすみませんと呟く白龍に苦笑した。
その後は白龍がよそよそしい態度をずっととっていたので、逆に俺はぐいぐい行くと寝る頃にはうざいと言って俺の背中を容赦なく蹴るいつもの白龍に戻っていた。つまらん。


目の前には大正モダン独特の和洋折衷様式である立派な屋敷が立っていた。
俺の実家もなかなかに立派な家ではあるが中華風の建築であるため、この屋敷の様なシックな雰囲気はない。
呼び鈴を押すと庭中に植えてある花々を眺める。どれも美しく、売れば高そうだ。アリババ殿はさっきからぽかんと口を開けて呆けており、こんな立派なところ俺なら恐ろしくて住めないと首を横に振った。それは俺も同意します。
ガチャリと扉が開き老人が顔を出す。
「よく来たね、さぁ中へおはいり」
お邪魔しますと挨拶をして玄関へ足を踏み入れる。部屋の壁にはたくさんの乾燥花と標本が飾られていた。
「凄いですね・・・」
思わず感嘆の声をあげる。まるで美術館の様だ。老人は得意になって説明する。
ふふ、そうだろう?私は美しいものが好きだからね、庭の花達は見たかい?そうか、ありがとう。こまめに手入れをしているかいがあるってものだよ。
でもね、どんなに美しくても時間がたてば枯れてしまうからね、でもこうして薬剤を使ってドライフラワーにすればずっと美しいままだろう?標本だってそうさ、まぁ花よりも処理がずっとたいへんだけどね。蝶は割と簡単なんだけど蜻蛉とかになるといささか処理が面倒でねぇ。
「嗚呼すまないね、君の用事はあの人の写真を見ることだったね。写真の収納している場所は奥の部屋だよ、さぁこっちにいらっしゃい」
案内されるままにガラス張りの長い廊下を通る。他にも小さな部屋がいくつもあった。部屋の隙間から色鮮やかな色彩が零れる。
「その小部屋達には標本や花を飾っているんだよ、倉庫みたいなものかな。気になるなら後から見るといい」
是非そうさせてもらおう。まるで別の世界の様な色とりどりの部屋にきょろきょろと周りを見る。
「なぁなぁ白龍、俺写真よりもこっちの部屋の方が興味あるんだけど」
頬を高揚させて興味津々ですと言わんばかりのアリババ殿に苦笑しつつ、行っていいですよと首を小さく縦に振る。
彼は「やったー」と元気よく部屋の中に入って行った。どちらかといえば、美術品を見て楽しむよりも、蝶や蜻蛉などの虫をよく観察出来る事の方に重点を置いているように見える。アリババ殿らしいといえばアリババ殿らしい。

先に進むと広い書庫があった。天井にはシャンデリアが吊るされ壮麗な部屋にほう、とため息が出る。
「あの人の写真は・・・あ、あったこれかな」
本棚から分厚いアルバムを取り出して机の上に置く。定期的に整理しているのか、図書室の様に埃が舞う事は無かった。
「これのほかにもたくさんあるから探してみるといいよ、ただ上の方の本は取るのが危ないからやめておきなさい。そこの脚立も随分年季が入っているからね」
あとそれから、にこりと笑って老人が言うと同時に俺の頭にバサリと羽の擦れる音と重い重量を感じた。
「ペットのフクロウがどうにもこの部屋を気に入っていてね、悪さでもしない限り害は与えないから気にせず放っておくといいよ」
そう言い終わると同時に頭の上でキュルキュルと鳴き声がした。窓ガラスを見れば、ふてぶてしく俺の頭の上でふんぞり返るフクロウが映る。重いから退いてほしい。
じゃあ、私は標本作りがあるから何かあれば二階の書斎に来るといい。青いドアが目印だよ。
頷くとパタンとドアが閉められた。とりあえずはこのフクロウが退く方法を先に考えよう。


バサバサと頭上でフクロウが本棚の隙間を行ったり来たりしていた。
時折落ちてくる白い羽に顔をしかめながら置かれたアルバムを眺める。
写真は昔のものだけあってくすんだ色あいではあるが、そのことを差し引いても写真の中のアリババ殿はどれも金色に輝いていた。どの写真を見てもアリババ殿は笑顔で笑っており、楽しさがこちらにまで伝わってくるようだ。
犬にじゃれ付かれて子供達に助けを求めている写真には笑った。何ともあの人らしい。
次のページへ手を伸ばそうとした瞬間、頭上でフクロウの甲高い鳴き声と、どさどさと重い音を立てて落ちてきた本に驚く。
バサバサと翼を羽ばたかせるフクロウを睨みつけ、床に散乱した本を見る。結構な高さから落ちてきた本たちは分厚いものから薄っぺらいものまであった。自分の上に落ちてきたら笑い事じゃ済まなかっただろう。フクロウって食べられるのだろうかと不穏な事を考えて本を机の上に置いていく。
不意に一つの薄いアルバムに目がいった。
アンティーク調の赤い表紙に周りには金の縁どりがしてあり、他の本やアルバムよりも上等そうだ。

ぱらりとページをめくると俺は目を見開いて固まった。
冷や汗がたらりと流れる。首筋にはぶわりと鳥肌が立ち、指先が震える。
アルバムの中の写真に写っているものはアリババ殿だった。しかし、他の笑っている写真とは違い、笑う事は無く眠っているかのように瞳を閉じていた。
それだけならまだいい。問題は、アリババ殿とその周りに真っ赤な鮮血が花が咲く様に広がっているという事だ。床や頬に飛び散る血しぶきが痛いくらいに生々しい。
他の写真も同様に血に染まっている。
コンコンと、ノックの音が聞こえて心臓が大きく跳ねた。ガチャリとドアが開く音と同時にアルバムを閉じる
「さっき大きな音がしたんだが、何かあったのかい」
「それでしたら、フクロウが羽ばたいた拍子に本を落としただけです」
表情は笑えているだろうか、動揺を隠せているだろうか、アルバムの表紙に置いた手に力が籠る。
「そうか、うちの子がすまないね。本はそのままにしておくといい、後で私が直そう」
読んでいる途中に失礼してすまなかったね、それじゃあ。
そう言って背を向けた老人にホッと息をついた。

「ああそうだ、ところで君はそのアルバムの中身を見たのかい?」

背を向けたまま聞かれた言葉に凍りつく。どっと冷や汗が出て、上手く口が回らない。
そうした俺の反応を肯定とみなしたのか、老人が嫌なくらいにっこりと笑って振り向く。アルバムを持って、一歩後ずさる。
「そのアルバム、返してくれないかなぁ。私のコレクションの中でも特に大切なものなんだよ」
「コレクション?こんなものが?アンタあの人に何したんですか」
老人が一歩進むたびに警戒しながら一歩下がる。よく観察すれば衣服のポケットにふくらみが見える。刃物だったら最悪だなと思った矢先にするりと懐から出される。嬉しくないビンゴだ、フォールディングナイフ。抑えを外し、鞘からカシャリと刃を剥きだたせた。最悪。
「そんな物騒なものを丸腰の相手に向けるなんて犯罪ですよ」
「私を挑発した君が悪いんだよ。大切な、それもとびきりに大切な私のコレクションをこんなものだなんて、いくら温厚な私でも頭にくるよ」
「人を殺しておいて温厚とは笑わせますね」
俺の中で既に目の前の人物は学校の優しいおじいさんではなくなっていた。アリババ殿を殺したのが62年も前ならこの老人は僅か15歳で人殺しをしたことになる。どういう精神をしてるんだ。
老人は大げさにため息をつきやれやれといったポーズをとる。
「どうしてみんなこの芸術性が分からないのか本当に残念に思うよ、君だってあの人の金色には真っ赤な真紅が似合うとは思わないかい?私はただそれを実行に移しただけなんだけどねぇ」
「生憎ですが、俺だったら反吐が出ますね。アンタの言う芸術性なんてこれっぽっちも理解できませんよ」
ゴシック式の長いテーブルに沿って進行と後退を繰り返す。ちらりと開いたドアを見て隙を窺う。
しかし相手もその事に気付いたのか足を速めて来た。近寄るな下衆が。
「そのアルバム返してくれないんだったら仕方ないよね、ああ嫌だなぁ今は昔と違って人一人居なくなったくらいで大きく騒ぎ立てるんだから、処理するのも面倒なんだよね」

返してくれないならその手首を切り落とそうか

表情は何処までも穏やかに笑っているのに目は冷笑的だった。
間を詰めて老人は右手のナイフを大きく振りかざしたが、既の所でかわす。持っていたアルバムを高く投げ、そのまま身をかがめ、近くにあった杖で咄嗟に鳩尾を突き、瞬時に八相の構えから脛を打つ。
所詮は年寄り、自分と違って動きは鈍い。落ちてきたアルバムをキャッチする。ひらひらと数枚写真が床に落ちたが気にせず老人の呻き声の上がる部屋を急いで出る。
とにかくアリババ殿と合流しなくては。
急いで元来た道を戻ろうと踵を返した瞬間、落ちた。
あまりにも突然の事に悲鳴すら上がらなかった。もくもくと埃が宙にたち込める。
痛む体を叱咤して立ち上がると、薬品の匂いが立ち込めた。上を見上げると光がさしている。
どうやら地下室の様で、自分は螺旋階段の中心から真っ直ぐ下に落ちたらしい。よっぽどそこらのアトラクションなんかよりも怖い体験をしたと思う。
ほの暗い地下室を注意しながら歩く。部屋を円状に囲むように扉がいくつもあり、適当な部屋に入る。もし電話でも見つけたら警察を呼ぼう。
俺が入った部屋はがらんとだだっ広く、壁一面鏡で出来ており、奥にはガラスでできた棺があった。
本来は電話など無いと分かった時点で別の部屋に引き戻すべきだが、その時はなぜだか好奇心の方が勝ってしまった。
奥に進み、棺を視界に映す。
棺の中身を見た瞬間、ごくりと喉が鳴った。

――中には、アリババ殿の遺体

「なんですか、これ」
遺体は遠の昔に亡くなったとは思えないほど頬はふっくらとしており、金糸の髪は輝きを放っていた。
流石に血は通っていないらしく頬に赤みは無かったが、死んでいるのではなく眠っているのだと言われても納得してしまいそうなほど、遺体は美しい。
「それも見たんだね」
広い空間の中で響いた声に顔をあげる。ゼェゼェと息をあげながら老人が部屋の入り口で立っていた。
ごりごりと床を削る鈍い音を立てて、鎌を引きずりながらこちらへ向かって来る。しかし、先ほど脛を打ったためか不安定な歩き方で動きは遅い。
「死んだ時と変わらないままの姿で美しいだろう?薬品を使って遺体を死蝋化させたんだよ」
「悪趣味ですね。殺すだけじゃ飽き足らず遺体を蝋人形に仕立て上げて、アンタ気が狂ってるんじゃないですか?」
吐き捨てるように言えば、金切り声をあげて噛みつく様に老人が反論する。
「君は分かってないね、本当に分かってない。どんなに美しいものでもいつかは腐って醜くなる、そうなるくらいなら時を止めて美しい時のままでいる方が良いだろう?だから私は彼を乾燥花や標本と同じようにしてあげたんだよ」
この老人の話を聞けば聞くほど胸糞悪くなる。
あんなに綺麗だと思った花も、蝶も、今となっては嫌悪の対象だ。
棺の中のアリババ殿は確かに綺麗だと思った。悪趣味ではあるけれど、美しいかと問われれば首を縦に振るしかない。しかしそれを良しとは思わない。
「本人からしたら、迷惑以外の何物でもないと思いますよ」
「あの人の事を知らない癖にぬけぬけとよく言う」
その言葉にピクリと青筋が立つ。
棺にアルバムを置き、老人の方へカツカツと近付く。
「何も知らないのはアンタの方でしょう?この人の名前すら言えやしないのに知った様な口をきいて」
癪に障るんですよ。言い終わるか終わらないかの所で、肘で鳩尾を突く。
武器となるものが無くても体は使える。
次に急所の肝臓に狙いを定め、拳で突いたところで腕を取られた。うわっ、詰んだ。
予想外の反撃に固まってしまう。急所ついたんですから老人らしく呻き倒れてくださいよ、変に根性見せやがって。

「二度も同じ手は食わないよ。さて、どうしようか」
嫌な笑みだ。年寄りの癖に腕を掴む手は強い。
血走っている目にこの後自分がどうなるのかは、たやすく想像がついた。
「最初は腕を切り落としてやろうかと思ったけどやめたよ。君は胸糞悪くなる言葉ばかり吐く、だからその口がものを言えなくなる様に首を落としてしまおう」
喜色の表情を浮かべ、老人は高々と鎌を振りあげた。

終わりの瞬間に強く瞼を瞑る。
申し訳ありませんアリババ殿、どうやら貴方を見送られそうにないです。


「・・・?」
しかし、いくら痛みを待てどもその時は来なかった。
目を開けると真っ直ぐ前を凝視したまま固まる老人と、その首にそっと腕を絡ませるアリババ殿が映った。
慌てて老人の手を振りほどき、よろめきながら数歩下がる。
老人はガシャンと鎌を落とし、壁の鏡を指差しながら掠れた呼吸を繰り返す。
首をそろりそろりと撫でながらアリババ殿が問う。
「なぁ、お前が俺を殺したの?」
老人は何も答えられず呼吸がさらに粗くなる。アリババ殿の声が聞こえるのだろうか、いや、それはない。だったら屋敷に入った時点で聞かれてる。しかし鏡に映ったアリババ殿が視えるなら口の動きで言葉が分かるだろう。
首を絞める形に手をゆるりと動かす。
妖艶な、それでいてどこか背筋の凍るような表情でアリババ殿が静かに呟いた。

「死ね」

「もー、いざ書庫に行ったら白龍いなしさ―、俺の惨殺写真は落ちてるわ、じいさんは血走った目で鎌引きずってるわ、めっちゃ怖かったんだぞー」
無い心臓が縮みあがるかと思ったんだからな―!と倒れた老人をつつきながらアリババ殿が頬を膨らませる。
正直、さっきのアンタの方がよほど怖かったと俺は思う。幽霊らしい事出来るんじゃないですか。俺まで倒れるかと思いましたよ。
「まじで?褒められると照れるからよせよ」
「褒めてませんよ」
やいやいと俺の頬を突いて来るアリババ殿を邪険に扱いながら、倒れた老人を見る。先ほど確かめたが脈に血は通っていなかった。――死因はショック死。
別に同情はしない。むしろいい気味だと思う。自業自得という言葉が頭に浮かんだ。
「ところで白龍」
アリババ殿が姿勢を正して真っ直ぐに俺を見る。
「最後のお願い頼んでもいいか?」
「いいですよ。どうせ断ったって無駄なんでしょう?」
粗い呼吸を整えて、俺も真っ直ぐに見返す。
何のお願いかはもう既に分かっていた。

幽霊になる条件は三つ。
一つは怨念が強く死んだ者。
一つは自分が死んだことに納得していない者。
一つは死体が骨になっていない者。

当初の目的はアリババ殿の本心に死んだことを納得させるため、死因の証明となるものを探していたが、アリババ殿は自分の死んだ事の証明となる写真を見ても、成仏することはなかった。
そして、今自分達の傍にはガラスの棺に入っている死蝋化したアリババ殿の遺体がある。
そうなると、成仏。すなわちこの世から消え去る為の方法は一つ。

「俺の遺体を焼いて欲しいんだ」

ほら、正解だ。


結局その後、死蝋化したアリババ殿の遺体は、地下室の別の部屋に置いてあった大型のボストンバッグに遺体の写真の入ったアルバムと一緒に詰めた。
俺が遺体をバッグに詰めているのをアリババ殿は無表情で見つめていた。
自分の死体を見るなんてどんな気持ちなんだろうと考えたが、きっと良い感情は浮かばないだろうなと考えるのをすぐやめた。
老人の死体はそのまま放置することにした。その方がいろいろと都合が良かったからだ。
「遺体を燃やすのは明日でいいですか」
「うん。今日はもう遅いし、そうした方がいい」

死体の入ったバッグを肩に下げてアリババ殿と夜の道を歩いて帰った。
会話は無かったけれど、気まずさは感じなかった。
帰宅するとさっさとお風呂に入って寝る支度を整えた。
晩御飯を食べられる気がしなかったので胃には水を2カップ分、流し込んだだけで終わった。
布団に潜り込み、瞼を閉じようとしたところでノックの音が部屋に響いた。
起き上がるとアリババ殿がおずおずと入って来た。
そのまま無言でもそもそと俺の布団の中に潜り込む。すや・・・。
「っておい!」
「うぉわっ!?なんだよびっくりさせんなよ!」
びっくりさせるなとはこちらの言い分だ。人が寝ようとしている時に煩くされるの迷惑なんですけどって顔をアンタにされるいわれはない。
「何勝手に人の布団の中入って来てるんですか」
「だって自分の死体の傍で寝たくないもん」
当たり前じゃんお前何言ってんの?という顔で見上げられる。そりゃそうだが何か言えよ。無言で布団に潜り込むなよ。
あーもう分かりましたよと文句を言いながら、ぼすんと柔らかい寝台に身を埋める。
アリババ殿がくすくすと笑う。ギロリと睨むとごめんと即答された。よろしい。

「白龍、手繋いでもいいか?」
唐突に、まるで内緒話でもするかのような、小さな声で話しかけられた。
「別に構いませんけど、どうしてですか?」
「・・・今日が最後だから、それだけ。お休みー」
「・・・お休みなさい」

手をつないだまま、あっという間に眠りの世界に旅立ったアリババ殿を見つめる。
なんで人が寝ようとする時にそんなこと言うんですかアンタは。
空いている方の手でアリババ殿の髪を梳く。
不意に一滴だけホロリと涙がこぼれた。別に泣きたいわけじゃないのに、勝手に出てくるなよ。
アリババ殿は規則的に寝息を立てていた。幽霊の癖に、どんな夢を見ているんですか。ベッドの持ち主よりも先に寝るなんてどういう了見ですか。今日、貴方のために俺は滅茶苦茶頑張ったんですよ。
それなのに明日の今頃は、俺の隣には貴方は居てはくれないんですよね。正直なところ嫌なんですよ、寂しいんですよ、貴方が居なくなることが。でも、あなたがそれを望むなら、俺に見送って欲しいなら、
「大丈夫、ちゃんと俺が、俺が貴方を見送りますから。安心して眠っていて下さい」
言葉が届いたのか届いていないのか、アリババ殿はふにゃりと小さく笑った。
それを見て、ほろりほろりとまた涙がこぼれた。

握った手は相変わらず体温が無かった。


遺体を燃やすなら人目のつかないところで。という事で、考えた先はアリババ殿の墓前だった。

ボストンバッグを肩からおろして汗を拭う。以前来たこの場所は前と変わらず、墓を囲むようにして木々が揺れていた。
のどかな晴天だ。アリババ殿がキャッキャとはしゃぎながら、ゴロゴロとシロツメクサの花畑の上を転がっている。自由人め。
アンタの遺体を此処まで運んでやったんだから労いの言葉くらいかけたらどうですかと、ごろごろ気持ちよさそうに転がるアリババ殿を蹴る。
痛い痛いと悲鳴を上げるアリババ殿を満足気に見下すと、公民館の裏手の水道から拝借したバケツで地面に水を撒く。
水を撒いた中央にボストンバッグを移動させ、鞄からマッチ箱を取り出したまま、一時停止。
アリババ殿がのそのそ近付いて来た。
何か言いたげな顔で、でも俺は何を言いたいのか分かっていて、それで、それで。
「なぁ白龍」
アリババ殿が俺の持っていたマッチ箱を取って、ゆっくりと地面に置く。
「せっかくまた来たんだからさ、ちょっとくらいは遊ぼうぜ」
家に持ち帰った花冠も、枯れちまったしさ、新しい奴がいるだろ?
にっこりと笑って俺に白い花を差し出す。
俺は小さく頷いて花を受け取った。

「アリババ殿見てくださいよこれ。前回のよりも綺麗に出来たと思いませんか?」
「どれどれ、あー、んー、そうだなー、うーん。えいやっ」
ぐしゃり。
美しい形をした俺の最高傑作が無残にも目の前のクソガキによって潰された。プチッ
「アンタ何してくれてるんですか!いくら俺が短期間のうちにアリババ殿を上回るほどの成長を遂げ、美しい冠を作ったからといって嫉妬のあまりに握りつぶすなんて!」
「ハーーーーーーッ!別に嫉妬なんかしてねーし、あまりにも醜すぎるから他の人の目に触れる前に消滅させてやろうと親切しただけだしー、何カッカしてんだよ」
「露骨に嫉妬してんじゃないですか!ちょっとその面貸してください!」
「やだやだ!白龍にだけは俺の見目麗しい顔は貸したくねーもん」
やいのやいのと草花の上で転げまわりながら、俺とアリババ殿はどちらがより美しい花冠を作れるか対決をしていた。
そして先ほど、俺の勝ちと見て間違いない出来の冠を潰され、アリババ殿に向かって怒声を張り上げている最中である。
するりとアリババ殿が俺の腕から逃げ、鞄に作った冠をぎゅっぎゅと詰める。ちょっと何してんですか鞄の中が草くさくなるじゃないですか。
「やっぱり俺の作った奴が一番だって竹林の神様が申されたから、白龍にも分けてやろうと思って」
「竹林の神様ってなんですか。アンタいつから神様と交信するようになったんですか。あと一番は俺です」
「いいや俺だね」
「俺ですよ」
お互い視線を合わせてにこりと笑う。次の瞬間には互に関節技を仕掛け合い、もはや花冠作りとはかけ離れたむさ苦しい技の掛け合いになっていた。
「いだ、いだだだだだだだだだ無理無理無理ギブギブ!」
四の字固めを全力でアリババ殿に仕掛ける。仕掛けて5秒でギブアップとは情けない。
拘束から解放してやるとよろよろと四つん這いで二三歩進み、くてりと草花の上にうつ伏せに倒れた。
すかさず、「俺の勝ちでいいですよね?」と聞くと「もう白龍さんの勝ちでいいですよー」としくしく泣くふりをして白旗をあげる。
どさりとアリババ殿の横に仰向けになって寝転ぶ。本当にいい天気だ。
俺の方に顔を向けたアリババ殿がへらへら笑いながら手を繋げて来た。あんまりそうやって無防備に近付かないでほしい。俺は貴方の事が好きなんですよ、心臓が爆発したら責任とってくれるんですか。
アリババ殿がとろりと溶けそうなほど柔らかい微笑みを俺に向ける。鼓動が速くなる音が聞こえた。

「白龍」
「なんですか」

繋がられた手に力がこもる。早くなる鼓動と共に顔に熱が集まる。
アリババ殿がふわりと笑い、その唇からこぼれ出した言葉は――・・・

「バルス!」

「だからなんでそうなる!?」
俺は盛大に地面を叩いた。アリババ殿はケラケラ笑いながら一度言ってみたかったんだ―と愉快そうに腹を抱えていた。
この人から期待するのは無駄だ。
「もういいです」
「へっ?何、白龍怒っちゃった?」
慌てながらごめんな、と俺に向かって差し出された手を取り、そのままどさりと押し倒す。きょとんと呆けた顔のアリババ殿が恨めしい。

「俺は貴方が好きです。アリババ殿が、貴方の事が好きです」
「うん、俺も白龍の事が好きだよ」

俺雀好きなんだよな―、丸っこくて可愛いよな―。と、いつの日か言っていた時と同じ軽さでアリババ殿は言い返す。
鈍感なこの人の事だ。予想はしていたが、それなりに堪える。
ぐっと下唇を噛む。違う、そうじゃない、そうじゃないんですアリババ殿。
「俺の言う好きと、貴方の言う好きは違うんですよ」
「違わないよ」
「違います」
「違わねーって」
押し問答を繰り返す。これじゃあらちが明かない。もういい、もういいです。

「だ・か・ら!俺の好きはアンタとキスしたいとか体の関係を持ちたいとかそういった好きなんですよ!」
「ほら、違わねーじゃん」

言われた言葉に目を丸くして固まる。つまり、どういうことだ。

チクタクと頭の中で整理する。なるほど、つまりアリババ殿もそういう意味で俺が好きだと、えっ!?
理解した途端に真っ赤に染まる俺の顔を見て、アリババ殿がへらへら笑う。白龍熟れたトマトみたいになってやんのー。
指摘されるとますます顔に熱が行く。ちょっと黙って欲しい。
「アンタはいつも一言余計なんですよ!」
俺の叫び声に、ムッとしたアリババ殿が言い返そうとするが、反論の声は唇を塞いで聞かないことにした。
突然のキスに鼻で呼吸することも忘れたのか苦しそうにアリババ殿がバタつくも、次第に大人しく受け入れた。
ぷはっと解放し、顔をあげると耳まで真っ赤になったアリババ殿がへらりと笑った。

「ちょっと息苦しかったけど、これで両想いだな」

へへへとだらしなく笑うアリババ殿をそのまま精一杯抱きしめた。
アリババ殿もギュッと抱きしめ返した。なんで体温が無いのに温かく感じるんだろうか、心も体もぽかぽかと暖かい。カイロでも仕込んでるんですかアンタ。
今なら幸せすぎて死ねる。割と冗談抜きで。
しかし、彼の次の一言で、今度は悲しみに暮れて死んでしまうかもしれないと思った。
真剣な眼差しに頭が冷える。言わないでほしい。言ってほしくない。でもそれはきっと叶わない。
痛いくらいに優しい声で、愛しい人が終わりを告げる。

「白龍、もう時間切れだ」


震える手でマッチ棒を掴んだまま、時間だけが経過していた。
覚悟はしていたのに、なかなか踏ん切りがつかず火を付ける事が出来ない。
何度も深呼吸して繰り返してみるも、ギリギリになって手は動きを止めてしまうのだ。
「白龍、火を付ける事なら俺にも出来るから、俺が代わりに「出来ます」
俺の代わりに箱に手を伸ばしたアリババ殿の手をいなす。
「出来ますから、俺が」
アリババ殿の言葉をさえぎり首を垂れる。見送ると決めた、だから全部俺が、俺がすると決めたんだ。
それなのに、馬鹿みたいに震えが止まらなくてこうしてアリババ殿を困らせている。情けない。
「白龍」
「大丈夫です」
「白龍」
「出来ますから」
「白龍」
「ちゃんとやれますから」
「白龍っ!」
大きく張りあげられた声に顔をあげる。

アリババ殿が俺を見て、花が咲く様ににっこりと笑い、俺の震える手にその手を重ねた。
「怖いなら、約束をしようぜ。また逢えるように」
「約束、ですか」
「うん、約束。俺が生まれ変わったら急いでお前に会いに行くからさ、だから待っててくれよ」
「生まれ変わったらなんてそんなの、確証が無いじゃないですか」
「そんなのやってみないと分かんねぇじゃん。この現実主義者め」
「アンタがお気楽なんですよ」
「ひでぇ言い草」
「アンタ限定ですよ」
「やっべー、全くもって嬉しくねぇわ」
途中から二人とも済ました顔をして言葉の応酬をする。
顔を見合わせると、どちらからともなくクスクス笑い出す。
いつだってこの人は眩しくて優しい。こうした約束だって、本当は俺のためなんでしょう?

確証はないけれど、不確かなそれだけど、それでも。その約束を信じてみよう。

「きっともう大丈夫です、アリババ殿」
「そっか、良かった」
こてりと俺の肩に頭を預ける。もう手の震えは止まっていた。大丈夫、大丈夫だ。
じゃあ白龍は長生きして待ってろよー。すぐ会いに来るんじゃなかったんですか?すぐ行くけどさ、迷子になるかもしれねぇじゃん。あー、アンタならあり得そうですね。否定しろよそこは。別にいいじゃないですか、アリババ殿が迷子になったら俺が探しに行きますよ。おー、頑張るなぁ。そりゃあ好きですから。・・・どうも。

アリババ殿をぎゅっと抱きしめた。

擦って小さな灯をともしたマッチをしばし見つめる。そっと遺体の入ったバッグに火を付ける。
じわじわと小さな炎だったそれは瞬く間に全身を包み込んで燃え盛った。
目の前で赤く広がる炎を見て、これで後戻りはもう出来ないんだ。そう思うと、ぼたぼたと目から温かい水がこぼれた。
まったく迷惑な話で、その水のせいで視界がぼやけてアリババ殿の顔をまともに見る事が出来ない。こんな時に限って水漏れとか最悪なんですけど。
そう呟くとアリババ殿が笑いながら俺の目元の水をぬぐった。はくりゅう、それは涙だよ。
なみだ、涙。これじゃあ何時ぞやに義姉から借りたあのマンガ本の主人公と同じじゃないですか。
それじゃあだめだ、笑顔が似合うこの人には笑って見送る方が良い。
涙はどんなに頑張っても止まらなかったけれど、止まらないならもういいやと泣いたまま笑う。
泣き虫だな、白龍は。そう言ってアリババ殿は笑みを深めた。アンタだって泣いてるくせに。

「いってらっしゃい」
「いってきます」


いつもとは逆の言葉であの人を見送った。
俺は炎が燻ぶるまでそこにいた。帰る頃には以前来た時と同じように日は沈んでいた。でも今度は送り犬は俺の後をついて来ることはなかった。


家に帰るとどさりと体をベッドに投げ出した。今日はもう何もしたくない。
ぼう、と天井を見つめているとふわりと野花の香りがした。匂いの元をたどると俺の鞄からだった。
ごそりと中を漁ると潰れて歪んだ形になってしまったアリババ殿の作った花冠が出てきた。
力なく笑うと冠を抱きしめてまたベッドに体を投げ出す。こんなに潰れてしまっては明日には枯れてしまうだろう。
だけどそれでいいと思った。その方が良いと思った。
明日からは家を出る時に、いってきますを言う事も、おかえりなさいを聞くこともない。
ごろごろとわざと足元で転がっては邪魔だと蹴る相手も居ないし、ご飯を食べている時に恨めしそうにこちらを見られる事もない。
だけど、それはきっと永遠では無い。不確かな約束を信じて瞳を閉じる。
「逢えるその時まで、ずっと待っています」



欠伸を噛み殺しながら朝礼に参加する。
昨夜はテストの採点で眠れたのは4時ごろからだった。そして起床は6時。教師とは何とも残酷な職業だ。
これでサービス残業なんて言葉が当てはまることが無いと言う事自体がやばい、おかしい。教師だって人間だ。
たまには遅刻したりすることも、必要なプリントを忘れることも、採点をミスることだって、生意気な態度を取る部活の生徒に防具なしで突きをかましてやりたいことだってあるのだ。
そうした不平不満を巡らせているうちに、朝礼は終わったらしく、教師達は受け持ちの教室へ散らばって行く。
さて、俺も自分の教室に向かおうとした矢先、教頭から行く手を遮られた。
小さく舌打ちをして、なんですかとあたりさわりのない表情を取繕う。
「例の転校生、今日から通う事になっていますから、応接室に迎えに行ってあげて下さいね」
よろしく頼みますよ白龍先生。

ぽんと軽々しく肩を叩かれたことにイラつきつつ、そういえば自分のクラスに転校生が来るんだったという事を思い出す。
先月の会議の時に満場一致で押し付けられたのだ。
理由は、先生はこの学校出身ですし、生徒の気持ちも分かるんじゃないかと。なんて馬鹿げたものだ。くそったれ。
朝のホームルームで配布する書類を持って応接室へ向かう。足取りは重い。
正直転校生なんてクラスに迎え入れても面倒なことでしかない。小学校や、中学校ならまだどうにかなったかもしれないが、ここは高校だ。
自分の受け持つクラスは1学年目ではあるが、もう既に7月の夏休み前で、生徒達はほとんど各グループに分かれていた。そんな中に転校生を放り込んでみろ。相当な対人能力を持つ奴じゃない限り、除け者扱いにされる。
現に、一昨年転校生を迎えることになった他クラスの教師は、その生徒について大層酷く頭を痛めていた。
うちの子がまだ学校で馴染めていないんですけど、これって担任の責任ですよねぇ。との親の電話が始終教員室に鳴り響いていた。
そんなこと知るかよぉ!高校生なんだから対人関係なんて自己責任だろちくしょーっ!と飲み会で叫んでいた教師、ジュダル先生を思い出す。
嗚呼哀れ、今度は自分の番か。
基本生徒は放置主義の自分でも、親馬鹿のモンスターペアレントには逆らえない。保護者万歳。
気が重くなる事ばかり考えながら、いや、気を軽くしようとしても無理でしょうこれは。
とにかく、着いてしまった。応接室。
すりガラスがはめ込んであるドアの向こうから、今年一年間自分に心労を与え続ける悪魔の頭が動いているのが窺えた。悪霊退散。できればドアを開けると同時に蒸発してくれたら嬉しい。
しかし、そんなことが起こるはずもなく、ホームルームの時間も迫っている。

腹を決めてドアをノックして開く、と、驚きのあまりにバサリと手に持っていた書類を落とした。
宙にひらひらと舞う書類を掴まえて、最初に出会ったあの日と同じように書類を差し出し、二カッとはにかむように笑う。
懐かしい金の色にじわりと目元が熱くなった。懐かしい、でもそれ以上に愛おしい色だ。

「ただいま!」

書類を差し出したままのアリババ殿を力一杯に抱きしめる。ぐえっと潰れたアヒルみたいな声が聞こえたが気にせず腕に力を込める。
今は俺が年上だからか、すっぽりと体の中に収まった。

「おかえりなさいっ」

抱きしめた彼の体温は温かかった。  

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